• #01-#10
  • #11-#20
  • #21-#30

1

■第一話

その駄菓子屋には、ツケというシステムがあった。

記憶力に自信がなくなっていた店主の老婆は、どの子が何をツケで買ったかを台帳に書き留めていた。

ある日、悪い子供がこっそりと老婆の台帳を書き換えてしまい、駄菓子屋は大混乱に陥った。

そこで駄菓子屋の平和を願う子供たちは二度と同じことが起こらぬよう、ツケの情報を老婆ひとりではなく子供たち全員で管理することにした。

全員が台帳持ち、『同じ情報』が『同時に複数』存在するようにしたのだ。

更に、情報を更新する時は台帳の持ち主の半数以上が確認をしてから、というルールも決めた。

これで悪い子供がまた台帳の書き換えを企んだところで、正しい情報が失われることはなくなった。

「――とまあ、ビットコインとかで使われてるブロックチェーンの大雑把な考え方としてはこんな感じかな。台帳の新しいページ作りをしてくれた子にはお菓子をあげるとか、これを実現するために必要な諸々の仕組みはあるけど……。ともかく、直接のハッキングによるリスクがないってメリットがあるんだ」

そう告げた芥川 光啓(あくたがわ みつひろ)の前で、志賀 奈々(しが なな)は、うん、と真剣な表情で頷き。

「子どもたちにツケを許してくれる優しいお婆ちゃんのお店が守られて本当に良かった……!」

「そうだね……例え話の中のお店だけど」

「あ、でも説明のほうも、“たぶん”理解できました!」

「良かったよ。それで……僕が気になってるのは、『Satoshi Nakamoto』は何故この仕組みを作り、自分が何者かを伏せたまま世に放ったのかってこと……」

光啓は自身のスマホの画面に目を落とし、そこに映し出された文字の向こう側にいる人物に語りかけるように続けた。

「そこに、何か大きなヒントがある気がするんだ……」

開かれたメッセージアプリには『未来に光を』という文字だけが淡い光の中にあった。

一ヶ月前――

落ち着いた色合いのカーテンとラグ、木目の美しいテーブル、柔らかさにこだわったソファ。

快適な休日を過ごすためにと勤め人になってからこだわりをもって整えられたリビング。今は事情があって素材にこだわる余裕はなくなってしまってはいるが、ここでゆっくりと紅茶とお気に入りのクラシックを嗜むのが、激務の日々を送る光啓のささやかな楽しみだった。

……のだが。

「……何?」

唐突に電話をかけてきた相手の男に対し、光啓は不機嫌の隠しきれていない声で言った。

『なあ、急で悪いんだけど、ちょっと頼みがあってさ。今……』

「僕、休みなんだけど」

男は何かを説明しようとしていたが、光啓は話を聞く前に慌てて口を挟んだ。それも仕方ないだろう。同僚の泉 涼佑(いずみ りょうすけ)が持ってくる「頼みごと」は毎度ろくなことがないからだ。

「せめて、明日出勤してからに……」

『理由は説明できねーけど、めっちゃくちゃ緊急なんだよ! ってわけで今からそっち行くから、よろしく!』

「ちょ、ちょっと待っ……あ」

なんとか断ろうとする光啓を無視して、涼佑は一方的にまくしたてて通話を切ってしまった。

「相変わらず人の話を聞かないんだから……」

困った相手だが、それがわかっていて電話に出ないという選択をしなかった自分のせいでもある。のんびりと音楽鑑賞をするのを諦めて、涼佑と、恐らく彼が「頼みごと」と共に連れてくるのだろう誰かのためにカップを用意するのだった。

「……それで」

光啓は向かいのソファに腰掛けたふたりの客人を前に溜息を吐き出した。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「ごめんなさい! まさかこんなことになるなんて思ってなくて……」

奈々が申し訳なさそうに言うのに、光啓は「君が悪いんじゃないよ」と諦めの深い笑みを浮かべた。

光啓が予想したとおり、涼佑はひとりの女性を伴って現れた。予想外だったのは、それが顔見知りだったことだ。

「志賀さん?」

「なんだお前、知り合い?」

ふたりの反応に涼佑は一瞬驚いたようで、興味津々といった様子で光啓と奈々を交互に見たが、その当事者ふたりのほうは、なんと説明したものかという顔でお互いの顔を見合わせた。

友人という間柄ではないが、ただの知り合いという浅い関係ではない。それどころか光啓の家族にとって小さくない縁があるのだが、同僚のひとりでしかない涼佑に家庭の事情まで伝える気は光啓にはないのだ。

「ええっと……まあ、そんなところです」

奈々のほうもそんな光啓の考えを察したらしくどう説明しようかと困ってるようだったが、当の涼佑のほうは関係についてはまったく興味はないらしく「だったらちょうどいいや」と単純に笑った。

「おれの取引先のスポーツ用品メーカーのおっさんが、保険のことで困ってる社員がいるから話だけでも聞いてやってほしいってさー」

「……それでなんで家につれてきたのさ」

「やー、話を聞くなら本人とするのが一番じゃん?」

もっともらしいことを言っているが、絶対自分で聞くのがめんどかっただけだろ、と光啓はじとりと涼佑を見たが、当の本人はまったく悪びれた風もない上「暇つぶしにもちょうどいいじゃん」などと言う始末だ。

「お前、いっつも休みの日は家でぼーっと暇してるだけじゃん」

「……別に、ぼーっとしてるわけでも、暇してるわけでもないよ」

「暇じゃないって、もしかしてあれか? お前も例のコード探しか」

『コード探し』とは、一年前にネットを騒がせた『宝探し』だ。

曰く、様々な場所に隠された秘密の言葉を集めた者は巨額の富を得ることができるという。

その額、約3兆2000億円。オリンピックが開催できる規模だ。

主催者は『Satoshi Nakamoto』……世界で最初の仮想通貨ビットコインの創始者にして、正体不明の天才だ。

突如としてネット上に現れ、仮想通貨技術を発表した彼(あるいは彼女)は、2011年4月以降、ネット上から姿を消した。

保有している莫大な価値を持つビットコインも手つかずのまま、10年以上が過ぎた1年前……Satoshi NakamotoはSNS上に現れた。

そして、実際にSatoshi Nakamotoが保有していたビットコインを“動かし”、本物であることを証明してみせた後、「全てのコードを集めた者に、私が保有しているビットコイン全てを譲渡する」と残し、再びその消息を断ってしまった。

「あれから一年も経ってるんだよ。あんな雲を掴むような話、本気にしてる人なんてもういなくなったんじゃないの?」

「だから狙い目なんじゃねえか。競争は少ない方がいいだろ。それにお前、変な知識めっちゃあるし、謎解きとか好きじゃんか」

「……その話は置いといて」

このままだと協力させられる流れになりそうだったので、変に逸れてしまった話題を戻すように、光啓は視線を奈々の抱える荷物に向けた。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「だってそうでも言わないとお前、引き受けてくれないだろ?」

「当たり前でしょ、休みなんだから」

このお調子者に何度振り回されたことか。光啓はあからさまな溜息を吐き出した。

見た目だけはお人好しそうなイケメンだから頼みやすいのか、この男がこうして取引先からのお願いごとやら厄介ごとを持ちかけられては気安く受けて、光啓に丸投げしてくるのはいつものことだ。それがごくごく僅かではあるもののちゃんと仕事に繋がることがあるので、まったく無視することもできないのが厄介なところなのだ。

(けど……今回のこれは明らかにハズレだよなあ)

涼佑もそれがわかっているから理由を話さなかったのだろう。貴重な休日を潰されたイライラがまたひとつ深まって、光啓はちくりと刺すように涼佑を睨んだ。

「なんでこう、安請け合いしちゃうかな」

「困ったときはお互い様だろ?」

「それを解決してるの僕だけどね」

「あの! ね!」

どんどん光啓の空気が剣呑になっていく気配を感じてか、奈々がやや強引にふたりの間に割って入った。

「とりあえず、話、聞いてもらって良いかな」

「あ……うん、そうだね」

確かにこのままふたりで言い合いをしていたところで休日が消えていくだけなので、仕方なく奈々の提案に頷いたものの、彼女が抱えている包みの形と大きさから、光啓は何となくこの先の展開がわかっていた。

奈々がその包みをテーブルの上で開いていく。

「これなんですけど……」

そうして広げられたのは、光啓の予想していた通り一枚の絵画だった。なんとも言えないような色使いをした油絵らしい作品と成金趣味な額縁を前にげんなりしている光啓の様子には気付かず、奈々は誰かから渡されたらしいメモを取り出して説明する。

「えーと……これ、今まではぱっとしてこなかったけどインフルエンサーがSNSで紹介してから話題になってる18世紀の画家の作品なんだそうです。元々数が少なかったせいもあって、有名な画廊でも作品が手に入らないらしくて、希少価値が……」

「……つまり、この絵に保険を掛けたいって話だよね?」

持ち主の自慢げな顔が見えそうな長ったらしいメモを律儀に読み上げる奈々に、光啓は思わず遮った。

「でも、どうして志賀さんが?」

「持ち主の人がね、盗まれたりしたらどうしようって困ってたから、話を聞いてる内に頼まれちゃって……」

絵は「鑑定が必要かもしれないから」と半ば強引に渡されたらしい。こんな個人的なことでわざわざ光啓に連絡したら迷惑だろうと悩んでいたら、それが社長の目に留まって涼佑の耳に入ってここまで連れて来られた、というのが顛末らしい。本人は遠慮したのに光啓の元にやって来たというのだから、苦笑するしかない。

「美術品なら動産総合保険になるかな……たぶん掛け捨てになると思うけど大丈夫?」

「……やっぱり高いですか?」

奈々の不安げな声に、やはり心配ごとはそこだよな、と思いながら光啓は「ごめん」と素直に頭を下げた。

「こういうのは代理店の仕事で、俺みたいな本社営業じゃ直接扱ってはないからね。僕じゃちょっとそこまではわからないよ」

「お前、骨董品とか好きじゃ無かったっけ。鑑定とかできねーの?」

「専門外。保険にかかる金額は、絵画の値段や価値とイコールじゃないし」

「そっかあ……」

がっかりした様子の奈々に、申し訳ないような気持ちになったが、そもそ涼佑が最初からきちんと話を聞いていれば、無駄足を踏ませることはなかったのだ。内心で溜息をつきながら光啓は手帳を開きながら続ける。

「まあ、何人か専門を知ってるから、良さそうな代理店を紹介するよ」

「ありがとうございます!」

「さっすが芥川、頼りになるわー」

気楽に喜ぶ同僚の調子の良さに本日何度目かわからない溜息をつきながら、光啓はもうほとんど冷めかけの紅茶を口にし、ふと口を開いた。

「――それにしても、複製品にわざわざ保険を掛けるなんて、よっぽどその絵が気に入ったんだね、その人」

「「え?」」

光啓の声に、ふたりの驚いた声が重なる。

「複製……!?」

「……聞いてないの?」

「ほ……本物だって聞いてますけど」

奈々の困惑した表情に、光啓は眉を寄せた。

「……残念だけど、贋作(がんさく)を掴まされたみたいだね」

光啓の言葉は容赦がない。

「となると、どこで買ったのかが問題だなあ。うちの取引先で引っかかる人が出ないよう注意喚起しておきたいから、できればその人に買った経緯を教えてもらいたいんだけど……」

光啓の関心がすでに別の方向へ動いている中で、涼佑は戸惑いを隠せない様子でソファーから立ち上がった。

「なあ、どうして本物じゃ無いってわかったんだ?」

「どうしてって……んー、まず美術品に保険をかけるのを他人任せにしちゃうような人が、そんな希少価値の高い作品をホイホイ手に入れられると思えないから、怪しいと思ったんだよね」

さんざんな評価に奈々がちょっと複雑な顔をしたのに気付かず、奈々が光啓はトントンと額縁を指で叩く。

「さっきの説明だと……18世紀の作家なんだよね? それにしては額縁の時代が古すぎてズレてるし、逆に油絵の具の劣化がなさ過ぎる。少しのひび割れも無いのは不自然だし……この贋作を作ったの、本職じゃないのかな? あとは……ちょっと失礼……ああ、やっぱり」

目を丸くするふたりをよそに、光啓は絵を裏返して額縁の裏を外すとひとり納得して頷いた。

「わりと最近作ったやつだね、これ」

「最近!?」

もうほとんど悲鳴のようになったふたりの声に、光啓は淡々と説明を続ける。

「キャンバス地が真新しいでしょ。最近になって人気が出て、手に入りにくくなったのに目をつけた誰かが、儲かると思って作ったんじゃないかな……ん?」

他に何かおかしなところは無いだろうかと、隅々まで眺めていた、その時だ。

絵画の角度を変えた瞬間、その違和感が光啓の目に留まった。

(今、何か見えたような……)

疑問に思ってよく目をこらすと、絵の具の盛り上がった箇所が光を受けて何かの形を浮かび上がらせたのだとわかる。そこに意図的なものを感じて、あらゆる角度へと絵を傾けていくと、それはある規則性をもって光啓の前にその疑問を提示した。

「アルファベット……? h……o……――」

光啓はその文字を紙に書き出していく。

「howdo,youtrust……妙なところで区切られているけど……How do you trustかな?」

『どうやって信用する?』

それはまるで光啓自身にそう問いかけてくるようで、光啓はこのメッセージを仕込んだ者に奇妙な興味を抱いたのだった。

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■第一話

その駄菓子屋には、ツケというシステムがあった。

記憶力に自信がなくなっていた店主の老婆は、どの子が何をツケで買ったかを台帳に書き留めていた。

ある日、悪い子供がこっそりと老婆の台帳を書き換えてしまい、駄菓子屋は大混乱に陥った。

そこで駄菓子屋の平和を願う子供たちは二度と同じことが起こらぬよう、ツケの情報を老婆ひとりではなく子供たち全員で管理することにした。

全員が台帳持ち、『同じ情報』が『同時に複数』存在するようにしたのだ。

更に、情報を更新する時は台帳の持ち主の半数以上が確認をしてから、というルールも決めた。

これで悪い子供がまた台帳の書き換えを企んだところで、正しい情報が失われることはなくなった。

「――とまあ、ビットコインとかで使われてるブロックチェーンの大雑把な考え方としてはこんな感じかな。台帳の新しいページ作りをしてくれた子にはお菓子をあげるとか、これを実現するために必要な諸々の仕組みはあるけど……。ともかく、直接のハッキングによるリスクがないってメリットがあるんだ」

そう告げた芥川 光啓(あくたがわ みつひろ)の前で、志賀 奈々(しが なな)は、うん、と真剣な表情で頷き。

「子どもたちにツケを許してくれる優しいお婆ちゃんのお店が守られて本当に良かった……!」

「そうだね……例え話の中のお店だけど」

「あ、でも説明のほうも、“たぶん”理解できました!」

「良かったよ。それで……僕が気になってるのは、『Satoshi Nakamoto』は何故この仕組みを作り、自分が何者かを伏せたまま世に放ったのかってこと……」

光啓は自身のスマホの画面に目を落とし、そこに映し出された文字の向こう側にいる人物に語りかけるように続けた。

「そこに、何か大きなヒントがある気がするんだ……」

開かれたメッセージアプリには『未来に光を』という文字だけが淡い光の中にあった。

一ヶ月前――

落ち着いた色合いのカーテンとラグ、木目の美しいテーブル、柔らかさにこだわったソファ。

快適な休日を過ごすためにと勤め人になってからこだわりをもって整えられたリビング。今は事情があって素材にこだわる余裕はなくなってしまってはいるが、ここでゆっくりと紅茶とお気に入りのクラシックを嗜むのが、激務の日々を送る光啓のささやかな楽しみだった。

……のだが。

「……何?」

唐突に電話をかけてきた相手の男に対し、光啓は不機嫌の隠しきれていない声で言った。

『なあ、急で悪いんだけど、ちょっと頼みがあってさ。今……』

「僕、休みなんだけど」

男は何かを説明しようとしていたが、光啓は話を聞く前に慌てて口を挟んだ。それも仕方ないだろう。同僚の泉 涼佑(いずみ りょうすけ)が持ってくる「頼みごと」は毎度ろくなことがないからだ。

「せめて、明日出勤してからに……」

『理由は説明できねーけど、めっちゃくちゃ緊急なんだよ! ってわけで今からそっち行くから、よろしく!』

「ちょ、ちょっと待っ……あ」

なんとか断ろうとする光啓を無視して、涼佑は一方的にまくしたてて通話を切ってしまった。

「相変わらず人の話を聞かないんだから……」

困った相手だが、それがわかっていて電話に出ないという選択をしなかった自分のせいでもある。のんびりと音楽鑑賞をするのを諦めて、涼佑と、恐らく彼が「頼みごと」と共に連れてくるのだろう誰かのためにカップを用意するのだった。

「……それで」

光啓は向かいのソファに腰掛けたふたりの客人を前に溜息を吐き出した。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「ごめんなさい! まさかこんなことになるなんて思ってなくて……」

奈々が申し訳なさそうに言うのに、光啓は「君が悪いんじゃないよ」と諦めの深い笑みを浮かべた。

光啓が予想したとおり、涼佑はひとりの女性を伴って現れた。予想外だったのは、それが顔見知りだったことだ。

「志賀さん?」

「なんだお前、知り合い?」

ふたりの反応に涼佑は一瞬驚いたようで、興味津々といった様子で光啓と奈々を交互に見たが、その当事者ふたりのほうは、なんと説明したものかという顔でお互いの顔を見合わせた。

友人という間柄ではないが、ただの知り合いという浅い関係ではない。それどころか光啓の家族にとって小さくない縁があるのだが、同僚のひとりでしかない涼佑に家庭の事情まで伝える気は光啓にはないのだ。

「ええっと……まあ、そんなところです」

奈々のほうもそんな光啓の考えを察したらしくどう説明しようかと困ってるようだったが、当の涼佑のほうは関係についてはまったく興味はないらしく「だったらちょうどいいや」と単純に笑った。

「おれの取引先のスポーツ用品メーカーのおっさんが、保険のことで困ってる社員がいるから話だけでも聞いてやってほしいってさー」

「……それでなんで家につれてきたのさ」

「やー、話を聞くなら本人とするのが一番じゃん?」

もっともらしいことを言っているが、絶対自分で聞くのがめんどかっただけだろ、と光啓はじとりと涼佑を見たが、当の本人はまったく悪びれた風もない上「暇つぶしにもちょうどいいじゃん」などと言う始末だ。

「お前、いっつも休みの日は家でぼーっと暇してるだけじゃん」

「……別に、ぼーっとしてるわけでも、暇してるわけでもないよ」

「暇じゃないって、もしかしてあれか? お前も例のコード探しか」

『コード探し』とは、一年前にネットを騒がせた『宝探し』だ。

曰く、様々な場所に隠された秘密の言葉を集めた者は巨額の富を得ることができるという。

その額、約3兆2000億円。オリンピックが開催できる規模だ。

主催者は『Satoshi Nakamoto』……世界で最初の仮想通貨ビットコインの創始者にして、正体不明の天才だ。

突如としてネット上に現れ、仮想通貨技術を発表した彼(あるいは彼女)は、2011年4月以降、ネット上から姿を消した。

保有している莫大な価値を持つビットコインも手つかずのまま、10年以上が過ぎた1年前……Satoshi NakamotoはSNS上に現れた。

そして、実際にSatoshi Nakamotoが保有していたビットコインを“動かし”、本物であることを証明してみせた後、「全てのコードを集めた者に、私が保有しているビットコイン全てを譲渡する」と残し、再びその消息を断ってしまった。

「あれから一年も経ってるんだよ。あんな雲を掴むような話、本気にしてる人なんてもういなくなったんじゃないの?」

「だから狙い目なんじゃねえか。競争は少ない方がいいだろ。それにお前、変な知識めっちゃあるし、謎解きとか好きじゃんか」

「……その話は置いといて」

このままだと協力させられる流れになりそうだったので、変に逸れてしまった話題を戻すように、光啓は視線を奈々の抱える荷物に向けた。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「だってそうでも言わないとお前、引き受けてくれないだろ?」

「当たり前でしょ、休みなんだから」

このお調子者に何度振り回されたことか。光啓はあからさまな溜息を吐き出した。

見た目だけはお人好しそうなイケメンだから頼みやすいのか、この男がこうして取引先からのお願いごとやら厄介ごとを持ちかけられては気安く受けて、光啓に丸投げしてくるのはいつものことだ。それがごくごく僅かではあるもののちゃんと仕事に繋がることがあるので、まったく無視することもできないのが厄介なところなのだ。

(けど……今回のこれは明らかにハズレだよなあ)

涼佑もそれがわかっているから理由を話さなかったのだろう。貴重な休日を潰されたイライラがまたひとつ深まって、光啓はちくりと刺すように涼佑を睨んだ。

「なんでこう、安請け合いしちゃうかな」

「困ったときはお互い様だろ?」

「それを解決してるの僕だけどね」

「あの! ね!」

どんどん光啓の空気が剣呑になっていく気配を感じてか、奈々がやや強引にふたりの間に割って入った。

「とりあえず、話、聞いてもらって良いかな」

「あ……うん、そうだね」

確かにこのままふたりで言い合いをしていたところで休日が消えていくだけなので、仕方なく奈々の提案に頷いたものの、彼女が抱えている包みの形と大きさから、光啓は何となくこの先の展開がわかっていた。

奈々がその包みをテーブルの上で開いていく。

「これなんですけど……」

そうして広げられたのは、光啓の予想していた通り一枚の絵画だった。なんとも言えないような色使いをした油絵らしい作品と成金趣味な額縁を前にげんなりしている光啓の様子には気付かず、奈々は誰かから渡されたらしいメモを取り出して説明する。

「えーと……これ、今まではぱっとしてこなかったけどインフルエンサーがSNSで紹介してから話題になってる18世紀の画家の作品なんだそうです。元々数が少なかったせいもあって、有名な画廊でも作品が手に入らないらしくて、希少価値が……」

「……つまり、この絵に保険を掛けたいって話だよね?」

持ち主の自慢げな顔が見えそうな長ったらしいメモを律儀に読み上げる奈々に、光啓は思わず遮った。

「でも、どうして志賀さんが?」

「持ち主の人がね、盗まれたりしたらどうしようって困ってたから、話を聞いてる内に頼まれちゃって……」

絵は「鑑定が必要かもしれないから」と半ば強引に渡されたらしい。こんな個人的なことでわざわざ光啓に連絡したら迷惑だろうと悩んでいたら、それが社長の目に留まって涼佑の耳に入ってここまで連れて来られた、というのが顛末らしい。本人は遠慮したのに光啓の元にやって来たというのだから、苦笑するしかない。

「美術品なら動産総合保険になるかな……たぶん掛け捨てになると思うけど大丈夫?」

「……やっぱり高いですか?」

奈々の不安げな声に、やはり心配ごとはそこだよな、と思いながら光啓は「ごめん」と素直に頭を下げた。

「こういうのは代理店の仕事で、俺みたいな本社営業じゃ直接扱ってはないからね。僕じゃちょっとそこまではわからないよ」

「お前、骨董品とか好きじゃ無かったっけ。鑑定とかできねーの?」

「専門外。保険にかかる金額は、絵画の値段や価値とイコールじゃないし」

「そっかあ……」

がっかりした様子の奈々に、申し訳ないような気持ちになったが、そもそ涼佑が最初からきちんと話を聞いていれば、無駄足を踏ませることはなかったのだ。内心で溜息をつきながら光啓は手帳を開きながら続ける。

「まあ、何人か専門を知ってるから、良さそうな代理店を紹介するよ」

「ありがとうございます!」

「さっすが芥川、頼りになるわー」

気楽に喜ぶ同僚の調子の良さに本日何度目かわからない溜息をつきながら、光啓はもうほとんど冷めかけの紅茶を口にし、ふと口を開いた。

「――それにしても、複製品にわざわざ保険を掛けるなんて、よっぽどその絵が気に入ったんだね、その人」

「「え?」」

光啓の声に、ふたりの驚いた声が重なる。

「複製……!?」

「……聞いてないの?」

「ほ……本物だって聞いてますけど」

奈々の困惑した表情に、光啓は眉を寄せた。

「……残念だけど、贋作(がんさく)を掴まされたみたいだね」

光啓の言葉は容赦がない。

「となると、どこで買ったのかが問題だなあ。うちの取引先で引っかかる人が出ないよう注意喚起しておきたいから、できればその人に買った経緯を教えてもらいたいんだけど……」

光啓の関心がすでに別の方向へ動いている中で、涼佑は戸惑いを隠せない様子でソファーから立ち上がった。

「なあ、どうして本物じゃ無いってわかったんだ?」

「どうしてって……んー、まず美術品に保険をかけるのを他人任せにしちゃうような人が、そんな希少価値の高い作品をホイホイ手に入れられると思えないから、怪しいと思ったんだよね」

さんざんな評価に奈々がちょっと複雑な顔をしたのに気付かず、奈々が光啓はトントンと額縁を指で叩く。

「さっきの説明だと……18世紀の作家なんだよね? それにしては額縁の時代が古すぎてズレてるし、逆に油絵の具の劣化がなさ過ぎる。少しのひび割れも無いのは不自然だし……この贋作を作ったの、本職じゃないのかな? あとは……ちょっと失礼……ああ、やっぱり」

目を丸くするふたりをよそに、光啓は絵を裏返して額縁の裏を外すとひとり納得して頷いた。

「わりと最近作ったやつだね、これ」

「最近!?」

もうほとんど悲鳴のようになったふたりの声に、光啓は淡々と説明を続ける。

「キャンバス地が真新しいでしょ。最近になって人気が出て、手に入りにくくなったのに目をつけた誰かが、儲かると思って作ったんじゃないかな……ん?」

他に何かおかしなところは無いだろうかと、隅々まで眺めていた、その時だ。

絵画の角度を変えた瞬間、その違和感が光啓の目に留まった。

(今、何か見えたような……)

疑問に思ってよく目をこらすと、絵の具の盛り上がった箇所が光を受けて何かの形を浮かび上がらせたのだとわかる。そこに意図的なものを感じて、あらゆる角度へと絵を傾けていくと、それはある規則性をもって光啓の前にその疑問を提示した。

「アルファベット……? h……o……――」

光啓はその文字を紙に書き出していく。

「howdo,youtrust……妙なところで区切られているけど……How do you trustかな?」

『どうやって信用する?』

それはまるで光啓自身にそう問いかけてくるようで、光啓はこのメッセージを仕込んだ者に奇妙な興味を抱いたのだった。

1

■第一話

その駄菓子屋には、ツケというシステムがあった。

記憶力に自信がなくなっていた店主の老婆は、どの子が何をツケで買ったかを台帳に書き留めていた。

ある日、悪い子供がこっそりと老婆の台帳を書き換えてしまい、駄菓子屋は大混乱に陥った。

そこで駄菓子屋の平和を願う子供たちは二度と同じことが起こらぬよう、ツケの情報を老婆ひとりではなく子供たち全員で管理することにした。

全員が台帳持ち、『同じ情報』が『同時に複数』存在するようにしたのだ。

更に、情報を更新する時は台帳の持ち主の半数以上が確認をしてから、というルールも決めた。

これで悪い子供がまた台帳の書き換えを企んだところで、正しい情報が失われることはなくなった。

「――とまあ、ビットコインとかで使われてるブロックチェーンの大雑把な考え方としてはこんな感じかな。台帳の新しいページ作りをしてくれた子にはお菓子をあげるとか、これを実現するために必要な諸々の仕組みはあるけど……。ともかく、直接のハッキングによるリスクがないってメリットがあるんだ」

そう告げた芥川 光啓(あくたがわ みつひろ)の前で、志賀 奈々(しが なな)は、うん、と真剣な表情で頷き。

「子どもたちにツケを許してくれる優しいお婆ちゃんのお店が守られて本当に良かった……!」

「そうだね……例え話の中のお店だけど」

「あ、でも説明のほうも、“たぶん”理解できました!」

「良かったよ。それで……僕が気になってるのは、『Satoshi Nakamoto』は何故この仕組みを作り、自分が何者かを伏せたまま世に放ったのかってこと……」

光啓は自身のスマホの画面に目を落とし、そこに映し出された文字の向こう側にいる人物に語りかけるように続けた。

「そこに、何か大きなヒントがある気がするんだ……」

開かれたメッセージアプリには『未来に光を』という文字だけが淡い光の中にあった。

一ヶ月前――

落ち着いた色合いのカーテンとラグ、木目の美しいテーブル、柔らかさにこだわったソファ。

快適な休日を過ごすためにと勤め人になってからこだわりをもって整えられたリビング。今は事情があって素材にこだわる余裕はなくなってしまってはいるが、ここでゆっくりと紅茶とお気に入りのクラシックを嗜むのが、激務の日々を送る光啓のささやかな楽しみだった。

……のだが。

「……何?」

唐突に電話をかけてきた相手の男に対し、光啓は不機嫌の隠しきれていない声で言った。

『なあ、急で悪いんだけど、ちょっと頼みがあってさ。今……』

「僕、休みなんだけど」

男は何かを説明しようとしていたが、光啓は話を聞く前に慌てて口を挟んだ。それも仕方ないだろう。同僚の泉 涼佑(いずみ りょうすけ)が持ってくる「頼みごと」は毎度ろくなことがないからだ。

「せめて、明日出勤してからに……」

『理由は説明できねーけど、めっちゃくちゃ緊急なんだよ! ってわけで今からそっち行くから、よろしく!』

「ちょ、ちょっと待っ……あ」

なんとか断ろうとする光啓を無視して、涼佑は一方的にまくしたてて通話を切ってしまった。

「相変わらず人の話を聞かないんだから……」

困った相手だが、それがわかっていて電話に出ないという選択をしなかった自分のせいでもある。のんびりと音楽鑑賞をするのを諦めて、涼佑と、恐らく彼が「頼みごと」と共に連れてくるのだろう誰かのためにカップを用意するのだった。

「……それで」

光啓は向かいのソファに腰掛けたふたりの客人を前に溜息を吐き出した。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「ごめんなさい! まさかこんなことになるなんて思ってなくて……」

奈々が申し訳なさそうに言うのに、光啓は「君が悪いんじゃないよ」と諦めの深い笑みを浮かべた。

光啓が予想したとおり、涼佑はひとりの女性を伴って現れた。予想外だったのは、それが顔見知りだったことだ。

「志賀さん?」

「なんだお前、知り合い?」

ふたりの反応に涼佑は一瞬驚いたようで、興味津々といった様子で光啓と奈々を交互に見たが、その当事者ふたりのほうは、なんと説明したものかという顔でお互いの顔を見合わせた。

友人という間柄ではないが、ただの知り合いという浅い関係ではない。それどころか光啓の家族にとって小さくない縁があるのだが、同僚のひとりでしかない涼佑に家庭の事情まで伝える気は光啓にはないのだ。

「ええっと……まあ、そんなところです」

奈々のほうもそんな光啓の考えを察したらしくどう説明しようかと困ってるようだったが、当の涼佑のほうは関係についてはまったく興味はないらしく「だったらちょうどいいや」と単純に笑った。

「おれの取引先のスポーツ用品メーカーのおっさんが、保険のことで困ってる社員がいるから話だけでも聞いてやってほしいってさー」

「……それでなんで家につれてきたのさ」

「やー、話を聞くなら本人とするのが一番じゃん?」

もっともらしいことを言っているが、絶対自分で聞くのがめんどかっただけだろ、と光啓はじとりと涼佑を見たが、当の本人はまったく悪びれた風もない上「暇つぶしにもちょうどいいじゃん」などと言う始末だ。

「お前、いっつも休みの日は家でぼーっと暇してるだけじゃん」

「……別に、ぼーっとしてるわけでも、暇してるわけでもないよ」

「暇じゃないって、もしかしてあれか? お前も例のコード探しか」

『コード探し』とは、一年前にネットを騒がせた『宝探し』だ。

曰く、様々な場所に隠された秘密の言葉を集めた者は巨額の富を得ることができるという。

その額、約3兆2000億円。オリンピックが開催できる規模だ。

主催者は『Satoshi Nakamoto』……世界で最初の仮想通貨ビットコインの創始者にして、正体不明の天才だ。

突如としてネット上に現れ、仮想通貨技術を発表した彼(あるいは彼女)は、2011年4月以降、ネット上から姿を消した。

保有している莫大な価値を持つビットコインも手つかずのまま、10年以上が過ぎた1年前……Satoshi NakamotoはSNS上に現れた。

そして、実際にSatoshi Nakamotoが保有していたビットコインを“動かし”、本物であることを証明してみせた後、「全てのコードを集めた者に、私が保有しているビットコイン全てを譲渡する」と残し、再びその消息を断ってしまった。

「あれから一年も経ってるんだよ。あんな雲を掴むような話、本気にしてる人なんてもういなくなったんじゃないの?」

「だから狙い目なんじゃねえか。競争は少ない方がいいだろ。それにお前、変な知識めっちゃあるし、謎解きとか好きじゃんか」

「……その話は置いといて」

このままだと協力させられる流れになりそうだったので、変に逸れてしまった話題を戻すように、光啓は視線を奈々の抱える荷物に向けた。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「だってそうでも言わないとお前、引き受けてくれないだろ?」

「当たり前でしょ、休みなんだから」

このお調子者に何度振り回されたことか。光啓はあからさまな溜息を吐き出した。

見た目だけはお人好しそうなイケメンだから頼みやすいのか、この男がこうして取引先からのお願いごとやら厄介ごとを持ちかけられては気安く受けて、光啓に丸投げしてくるのはいつものことだ。それがごくごく僅かではあるもののちゃんと仕事に繋がることがあるので、まったく無視することもできないのが厄介なところなのだ。

(けど……今回のこれは明らかにハズレだよなあ)

涼佑もそれがわかっているから理由を話さなかったのだろう。貴重な休日を潰されたイライラがまたひとつ深まって、光啓はちくりと刺すように涼佑を睨んだ。

「なんでこう、安請け合いしちゃうかな」

「困ったときはお互い様だろ?」

「それを解決してるの僕だけどね」

「あの! ね!」

どんどん光啓の空気が剣呑になっていく気配を感じてか、奈々がやや強引にふたりの間に割って入った。

「とりあえず、話、聞いてもらって良いかな」

「あ……うん、そうだね」

確かにこのままふたりで言い合いをしていたところで休日が消えていくだけなので、仕方なく奈々の提案に頷いたものの、彼女が抱えている包みの形と大きさから、光啓は何となくこの先の展開がわかっていた。

奈々がその包みをテーブルの上で開いていく。

「これなんですけど……」

そうして広げられたのは、光啓の予想していた通り一枚の絵画だった。なんとも言えないような色使いをした油絵らしい作品と成金趣味な額縁を前にげんなりしている光啓の様子には気付かず、奈々は誰かから渡されたらしいメモを取り出して説明する。

「えーと……これ、今まではぱっとしてこなかったけどインフルエンサーがSNSで紹介してから話題になってる18世紀の画家の作品なんだそうです。元々数が少なかったせいもあって、有名な画廊でも作品が手に入らないらしくて、希少価値が……」

「……つまり、この絵に保険を掛けたいって話だよね?」

持ち主の自慢げな顔が見えそうな長ったらしいメモを律儀に読み上げる奈々に、光啓は思わず遮った。

「でも、どうして志賀さんが?」

「持ち主の人がね、盗まれたりしたらどうしようって困ってたから、話を聞いてる内に頼まれちゃって……」

絵は「鑑定が必要かもしれないから」と半ば強引に渡されたらしい。こんな個人的なことでわざわざ光啓に連絡したら迷惑だろうと悩んでいたら、それが社長の目に留まって涼佑の耳に入ってここまで連れて来られた、というのが顛末らしい。本人は遠慮したのに光啓の元にやって来たというのだから、苦笑するしかない。

「美術品なら動産総合保険になるかな……たぶん掛け捨てになると思うけど大丈夫?」

「……やっぱり高いですか?」

奈々の不安げな声に、やはり心配ごとはそこだよな、と思いながら光啓は「ごめん」と素直に頭を下げた。

「こういうのは代理店の仕事で、俺みたいな本社営業じゃ直接扱ってはないからね。僕じゃちょっとそこまではわからないよ」

「お前、骨董品とか好きじゃ無かったっけ。鑑定とかできねーの?」

「専門外。保険にかかる金額は、絵画の値段や価値とイコールじゃないし」

「そっかあ……」

がっかりした様子の奈々に、申し訳ないような気持ちになったが、そもそ涼佑が最初からきちんと話を聞いていれば、無駄足を踏ませることはなかったのだ。内心で溜息をつきながら光啓は手帳を開きながら続ける。

「まあ、何人か専門を知ってるから、良さそうな代理店を紹介するよ」

「ありがとうございます!」

「さっすが芥川、頼りになるわー」

気楽に喜ぶ同僚の調子の良さに本日何度目かわからない溜息をつきながら、光啓はもうほとんど冷めかけの紅茶を口にし、ふと口を開いた。

「――それにしても、複製品にわざわざ保険を掛けるなんて、よっぽどその絵が気に入ったんだね、その人」

「「え?」」

光啓の声に、ふたりの驚いた声が重なる。

「複製……!?」

「……聞いてないの?」

「ほ……本物だって聞いてますけど」

奈々の困惑した表情に、光啓は眉を寄せた。

「……残念だけど、贋作(がんさく)を掴まされたみたいだね」

光啓の言葉は容赦がない。

「となると、どこで買ったのかが問題だなあ。うちの取引先で引っかかる人が出ないよう注意喚起しておきたいから、できればその人に買った経緯を教えてもらいたいんだけど……」

光啓の関心がすでに別の方向へ動いている中で、涼佑は戸惑いを隠せない様子でソファーから立ち上がった。

「なあ、どうして本物じゃ無いってわかったんだ?」

「どうしてって……んー、まず美術品に保険をかけるのを他人任せにしちゃうような人が、そんな希少価値の高い作品をホイホイ手に入れられると思えないから、怪しいと思ったんだよね」

さんざんな評価に奈々がちょっと複雑な顔をしたのに気付かず、奈々が光啓はトントンと額縁を指で叩く。

「さっきの説明だと……18世紀の作家なんだよね? それにしては額縁の時代が古すぎてズレてるし、逆に油絵の具の劣化がなさ過ぎる。少しのひび割れも無いのは不自然だし……この贋作を作ったの、本職じゃないのかな? あとは……ちょっと失礼……ああ、やっぱり」

目を丸くするふたりをよそに、光啓は絵を裏返して額縁の裏を外すとひとり納得して頷いた。

「わりと最近作ったやつだね、これ」

「最近!?」

もうほとんど悲鳴のようになったふたりの声に、光啓は淡々と説明を続ける。

「キャンバス地が真新しいでしょ。最近になって人気が出て、手に入りにくくなったのに目をつけた誰かが、儲かると思って作ったんじゃないかな……ん?」

他に何かおかしなところは無いだろうかと、隅々まで眺めていた、その時だ。

絵画の角度を変えた瞬間、その違和感が光啓の目に留まった。

(今、何か見えたような……)

疑問に思ってよく目をこらすと、絵の具の盛り上がった箇所が光を受けて何かの形を浮かび上がらせたのだとわかる。そこに意図的なものを感じて、あらゆる角度へと絵を傾けていくと、それはある規則性をもって光啓の前にその疑問を提示した。

「アルファベット……? h……o……――」

光啓はその文字を紙に書き出していく。

「howdo,youtrust……妙なところで区切られているけど……How do you trustかな?」

『どうやって信用する?』

それはまるで光啓自身にそう問いかけてくるようで、光啓はこのメッセージを仕込んだ者に奇妙な興味を抱いたのだった。

  • #01-#100
  • #101-#200
  • #01-#10
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  • #71-#80
  • #81-#90
  • #91-#100

1

■第一話

その駄菓子屋には、ツケというシステムがあった。

記憶力に自信がなくなっていた店主の老婆は、どの子が何をツケで買ったかを台帳に書き留めていた。

ある日、悪い子供がこっそりと老婆の台帳を書き換えてしまい、駄菓子屋は大混乱に陥った。

そこで駄菓子屋の平和を願う子供たちは二度と同じことが起こらぬよう、ツケの情報を老婆ひとりではなく子供たち全員で管理することにした。

全員が台帳持ち、『同じ情報』が『同時に複数』存在するようにしたのだ。

更に、情報を更新する時は台帳の持ち主の半数以上が確認をしてから、というルールも決めた。

これで悪い子供がまた台帳の書き換えを企んだところで、正しい情報が失われることはなくなった。

「――とまあ、ビットコインとかで使われてるブロックチェーンの大雑把な考え方としてはこんな感じかな。台帳の新しいページ作りをしてくれた子にはお菓子をあげるとか、これを実現するために必要な諸々の仕組みはあるけど……。ともかく、直接のハッキングによるリスクがないってメリットがあるんだ」

そう告げた芥川 光啓(あくたがわ みつひろ)の前で、志賀 奈々(しが なな)は、うん、と真剣な表情で頷き。

「子どもたちにツケを許してくれる優しいお婆ちゃんのお店が守られて本当に良かった……!」

「そうだね……例え話の中のお店だけど」

「あ、でも説明のほうも、“たぶん”理解できました!」

「良かったよ。それで……僕が気になってるのは、『Satoshi Nakamoto』は何故この仕組みを作り、自分が何者かを伏せたまま世に放ったのかってこと……」

光啓は自身のスマホの画面に目を落とし、そこに映し出された文字の向こう側にいる人物に語りかけるように続けた。

「そこに、何か大きなヒントがある気がするんだ……」

開かれたメッセージアプリには『未来に光を』という文字だけが淡い光の中にあった。

一ヶ月前――

落ち着いた色合いのカーテンとラグ、木目の美しいテーブル、柔らかさにこだわったソファ。

快適な休日を過ごすためにと勤め人になってからこだわりをもって整えられたリビング。今は事情があって素材にこだわる余裕はなくなってしまってはいるが、ここでゆっくりと紅茶とお気に入りのクラシックを嗜むのが、激務の日々を送る光啓のささやかな楽しみだった。

……のだが。

「……何?」

唐突に電話をかけてきた相手の男に対し、光啓は不機嫌の隠しきれていない声で言った。

『なあ、急で悪いんだけど、ちょっと頼みがあってさ。今……』

「僕、休みなんだけど」

男は何かを説明しようとしていたが、光啓は話を聞く前に慌てて口を挟んだ。それも仕方ないだろう。同僚の泉 涼佑(いずみ りょうすけ)が持ってくる「頼みごと」は毎度ろくなことがないからだ。

「せめて、明日出勤してからに……」

『理由は説明できねーけど、めっちゃくちゃ緊急なんだよ! ってわけで今からそっち行くから、よろしく!』

「ちょ、ちょっと待っ……あ」

なんとか断ろうとする光啓を無視して、涼佑は一方的にまくしたてて通話を切ってしまった。

「相変わらず人の話を聞かないんだから……」

困った相手だが、それがわかっていて電話に出ないという選択をしなかった自分のせいでもある。のんびりと音楽鑑賞をするのを諦めて、涼佑と、恐らく彼が「頼みごと」と共に連れてくるのだろう誰かのためにカップを用意するのだった。

「……それで」

光啓は向かいのソファに腰掛けたふたりの客人を前に溜息を吐き出した。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「ごめんなさい! まさかこんなことになるなんて思ってなくて……」

奈々が申し訳なさそうに言うのに、光啓は「君が悪いんじゃないよ」と諦めの深い笑みを浮かべた。

光啓が予想したとおり、涼佑はひとりの女性を伴って現れた。予想外だったのは、それが顔見知りだったことだ。

「志賀さん?」

「なんだお前、知り合い?」

ふたりの反応に涼佑は一瞬驚いたようで、興味津々といった様子で光啓と奈々を交互に見たが、その当事者ふたりのほうは、なんと説明したものかという顔でお互いの顔を見合わせた。

友人という間柄ではないが、ただの知り合いという浅い関係ではない。それどころか光啓の家族にとって小さくない縁があるのだが、同僚のひとりでしかない涼佑に家庭の事情まで伝える気は光啓にはないのだ。

「ええっと……まあ、そんなところです」

奈々のほうもそんな光啓の考えを察したらしくどう説明しようかと困ってるようだったが、当の涼佑のほうは関係についてはまったく興味はないらしく「だったらちょうどいいや」と単純に笑った。

「おれの取引先のスポーツ用品メーカーのおっさんが、保険のことで困ってる社員がいるから話だけでも聞いてやってほしいってさー」

「……それでなんで家につれてきたのさ」

「やー、話を聞くなら本人とするのが一番じゃん?」

もっともらしいことを言っているが、絶対自分で聞くのがめんどかっただけだろ、と光啓はじとりと涼佑を見たが、当の本人はまったく悪びれた風もない上「暇つぶしにもちょうどいいじゃん」などと言う始末だ。

「お前、いっつも休みの日は家でぼーっと暇してるだけじゃん」

「……別に、ぼーっとしてるわけでも、暇してるわけでもないよ」

「暇じゃないって、もしかしてあれか? お前も例のコード探しか」

『コード探し』とは、一年前にネットを騒がせた『宝探し』だ。

曰く、様々な場所に隠された秘密の言葉を集めた者は巨額の富を得ることができるという。

その額、約3兆2000億円。オリンピックが開催できる規模だ。

主催者は『Satoshi Nakamoto』……世界で最初の仮想通貨ビットコインの創始者にして、正体不明の天才だ。

突如としてネット上に現れ、仮想通貨技術を発表した彼(あるいは彼女)は、2011年4月以降、ネット上から姿を消した。

保有している莫大な価値を持つビットコインも手つかずのまま、10年以上が過ぎた1年前……Satoshi NakamotoはSNS上に現れた。

そして、実際にSatoshi Nakamotoが保有していたビットコインを“動かし”、本物であることを証明してみせた後、「全てのコードを集めた者に、私が保有しているビットコイン全てを譲渡する」と残し、再びその消息を断ってしまった。

「あれから一年も経ってるんだよ。あんな雲を掴むような話、本気にしてる人なんてもういなくなったんじゃないの?」

「だから狙い目なんじゃねえか。競争は少ない方がいいだろ。それにお前、変な知識めっちゃあるし、謎解きとか好きじゃんか」

「……その話は置いといて」

このままだと協力させられる流れになりそうだったので、変に逸れてしまった話題を戻すように、光啓は視線を奈々の抱える荷物に向けた。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「だってそうでも言わないとお前、引き受けてくれないだろ?」

「当たり前でしょ、休みなんだから」

このお調子者に何度振り回されたことか。光啓はあからさまな溜息を吐き出した。

見た目だけはお人好しそうなイケメンだから頼みやすいのか、この男がこうして取引先からのお願いごとやら厄介ごとを持ちかけられては気安く受けて、光啓に丸投げしてくるのはいつものことだ。それがごくごく僅かではあるもののちゃんと仕事に繋がることがあるので、まったく無視することもできないのが厄介なところなのだ。

(けど……今回のこれは明らかにハズレだよなあ)

涼佑もそれがわかっているから理由を話さなかったのだろう。貴重な休日を潰されたイライラがまたひとつ深まって、光啓はちくりと刺すように涼佑を睨んだ。

「なんでこう、安請け合いしちゃうかな」

「困ったときはお互い様だろ?」

「それを解決してるの僕だけどね」

「あの! ね!」

どんどん光啓の空気が剣呑になっていく気配を感じてか、奈々がやや強引にふたりの間に割って入った。

「とりあえず、話、聞いてもらって良いかな」

「あ……うん、そうだね」

確かにこのままふたりで言い合いをしていたところで休日が消えていくだけなので、仕方なく奈々の提案に頷いたものの、彼女が抱えている包みの形と大きさから、光啓は何となくこの先の展開がわかっていた。

奈々がその包みをテーブルの上で開いていく。

「これなんですけど……」

そうして広げられたのは、光啓の予想していた通り一枚の絵画だった。なんとも言えないような色使いをした油絵らしい作品と成金趣味な額縁を前にげんなりしている光啓の様子には気付かず、奈々は誰かから渡されたらしいメモを取り出して説明する。

「えーと……これ、今まではぱっとしてこなかったけどインフルエンサーがSNSで紹介してから話題になってる18世紀の画家の作品なんだそうです。元々数が少なかったせいもあって、有名な画廊でも作品が手に入らないらしくて、希少価値が……」

「……つまり、この絵に保険を掛けたいって話だよね?」

持ち主の自慢げな顔が見えそうな長ったらしいメモを律儀に読み上げる奈々に、光啓は思わず遮った。

「でも、どうして志賀さんが?」

「持ち主の人がね、盗まれたりしたらどうしようって困ってたから、話を聞いてる内に頼まれちゃって……」

絵は「鑑定が必要かもしれないから」と半ば強引に渡されたらしい。こんな個人的なことでわざわざ光啓に連絡したら迷惑だろうと悩んでいたら、それが社長の目に留まって涼佑の耳に入ってここまで連れて来られた、というのが顛末らしい。本人は遠慮したのに光啓の元にやって来たというのだから、苦笑するしかない。

「美術品なら動産総合保険になるかな……たぶん掛け捨てになると思うけど大丈夫?」

「……やっぱり高いですか?」

奈々の不安げな声に、やはり心配ごとはそこだよな、と思いながら光啓は「ごめん」と素直に頭を下げた。

「こういうのは代理店の仕事で、俺みたいな本社営業じゃ直接扱ってはないからね。僕じゃちょっとそこまではわからないよ」

「お前、骨董品とか好きじゃ無かったっけ。鑑定とかできねーの?」

「専門外。保険にかかる金額は、絵画の値段や価値とイコールじゃないし」

「そっかあ……」

がっかりした様子の奈々に、申し訳ないような気持ちになったが、そもそ涼佑が最初からきちんと話を聞いていれば、無駄足を踏ませることはなかったのだ。内心で溜息をつきながら光啓は手帳を開きながら続ける。

「まあ、何人か専門を知ってるから、良さそうな代理店を紹介するよ」

「ありがとうございます!」

「さっすが芥川、頼りになるわー」

気楽に喜ぶ同僚の調子の良さに本日何度目かわからない溜息をつきながら、光啓はもうほとんど冷めかけの紅茶を口にし、ふと口を開いた。

「――それにしても、複製品にわざわざ保険を掛けるなんて、よっぽどその絵が気に入ったんだね、その人」

「「え?」」

光啓の声に、ふたりの驚いた声が重なる。

「複製……!?」

「……聞いてないの?」

「ほ……本物だって聞いてますけど」

奈々の困惑した表情に、光啓は眉を寄せた。

「……残念だけど、贋作(がんさく)を掴まされたみたいだね」

光啓の言葉は容赦がない。

「となると、どこで買ったのかが問題だなあ。うちの取引先で引っかかる人が出ないよう注意喚起しておきたいから、できればその人に買った経緯を教えてもらいたいんだけど……」

光啓の関心がすでに別の方向へ動いている中で、涼佑は戸惑いを隠せない様子でソファーから立ち上がった。

「なあ、どうして本物じゃ無いってわかったんだ?」

「どうしてって……んー、まず美術品に保険をかけるのを他人任せにしちゃうような人が、そんな希少価値の高い作品をホイホイ手に入れられると思えないから、怪しいと思ったんだよね」

さんざんな評価に奈々がちょっと複雑な顔をしたのに気付かず、奈々が光啓はトントンと額縁を指で叩く。

「さっきの説明だと……18世紀の作家なんだよね? それにしては額縁の時代が古すぎてズレてるし、逆に油絵の具の劣化がなさ過ぎる。少しのひび割れも無いのは不自然だし……この贋作を作ったの、本職じゃないのかな? あとは……ちょっと失礼……ああ、やっぱり」

目を丸くするふたりをよそに、光啓は絵を裏返して額縁の裏を外すとひとり納得して頷いた。

「わりと最近作ったやつだね、これ」

「最近!?」

もうほとんど悲鳴のようになったふたりの声に、光啓は淡々と説明を続ける。

「キャンバス地が真新しいでしょ。最近になって人気が出て、手に入りにくくなったのに目をつけた誰かが、儲かると思って作ったんじゃないかな……ん?」

他に何かおかしなところは無いだろうかと、隅々まで眺めていた、その時だ。

絵画の角度を変えた瞬間、その違和感が光啓の目に留まった。

(今、何か見えたような……)

疑問に思ってよく目をこらすと、絵の具の盛り上がった箇所が光を受けて何かの形を浮かび上がらせたのだとわかる。そこに意図的なものを感じて、あらゆる角度へと絵を傾けていくと、それはある規則性をもって光啓の前にその疑問を提示した。

「アルファベット……? h……o……――」

光啓はその文字を紙に書き出していく。

「howdo,youtrust……妙なところで区切られているけど……How do you trustかな?」

『どうやって信用する?』

それはまるで光啓自身にそう問いかけてくるようで、光啓はこのメッセージを仕込んだ者に奇妙な興味を抱いたのだった。

1

■第一話

その駄菓子屋には、ツケというシステムがあった。

記憶力に自信がなくなっていた店主の老婆は、どの子が何をツケで買ったかを台帳に書き留めていた。

ある日、悪い子供がこっそりと老婆の台帳を書き換えてしまい、駄菓子屋は大混乱に陥った。

そこで駄菓子屋の平和を願う子供たちは二度と同じことが起こらぬよう、ツケの情報を老婆ひとりではなく子供たち全員で管理することにした。

全員が台帳持ち、『同じ情報』が『同時に複数』存在するようにしたのだ。

更に、情報を更新する時は台帳の持ち主の半数以上が確認をしてから、というルールも決めた。

これで悪い子供がまた台帳の書き換えを企んだところで、正しい情報が失われることはなくなった。

「――とまあ、ビットコインとかで使われてるブロックチェーンの大雑把な考え方としてはこんな感じかな。台帳の新しいページ作りをしてくれた子にはお菓子をあげるとか、これを実現するために必要な諸々の仕組みはあるけど……。ともかく、直接のハッキングによるリスクがないってメリットがあるんだ」

そう告げた芥川 光啓(あくたがわ みつひろ)の前で、志賀 奈々(しが なな)は、うん、と真剣な表情で頷き。

「子どもたちにツケを許してくれる優しいお婆ちゃんのお店が守られて本当に良かった……!」

「そうだね……例え話の中のお店だけど」

「あ、でも説明のほうも、“たぶん”理解できました!」

「良かったよ。それで……僕が気になってるのは、『Satoshi Nakamoto』は何故この仕組みを作り、自分が何者かを伏せたまま世に放ったのかってこと……」

光啓は自身のスマホの画面に目を落とし、そこに映し出された文字の向こう側にいる人物に語りかけるように続けた。

「そこに、何か大きなヒントがある気がするんだ……」

開かれたメッセージアプリには『未来に光を』という文字だけが淡い光の中にあった。

一ヶ月前――

落ち着いた色合いのカーテンとラグ、木目の美しいテーブル、柔らかさにこだわったソファ。

快適な休日を過ごすためにと勤め人になってからこだわりをもって整えられたリビング。今は事情があって素材にこだわる余裕はなくなってしまってはいるが、ここでゆっくりと紅茶とお気に入りのクラシックを嗜むのが、激務の日々を送る光啓のささやかな楽しみだった。

……のだが。

「……何?」

唐突に電話をかけてきた相手の男に対し、光啓は不機嫌の隠しきれていない声で言った。

『なあ、急で悪いんだけど、ちょっと頼みがあってさ。今……』

「僕、休みなんだけど」

男は何かを説明しようとしていたが、光啓は話を聞く前に慌てて口を挟んだ。それも仕方ないだろう。同僚の泉 涼佑(いずみ りょうすけ)が持ってくる「頼みごと」は毎度ろくなことがないからだ。

「せめて、明日出勤してからに……」

『理由は説明できねーけど、めっちゃくちゃ緊急なんだよ! ってわけで今からそっち行くから、よろしく!』

「ちょ、ちょっと待っ……あ」

なんとか断ろうとする光啓を無視して、涼佑は一方的にまくしたてて通話を切ってしまった。

「相変わらず人の話を聞かないんだから……」

困った相手だが、それがわかっていて電話に出ないという選択をしなかった自分のせいでもある。のんびりと音楽鑑賞をするのを諦めて、涼佑と、恐らく彼が「頼みごと」と共に連れてくるのだろう誰かのためにカップを用意するのだった。

「……それで」

光啓は向かいのソファに腰掛けたふたりの客人を前に溜息を吐き出した。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「ごめんなさい! まさかこんなことになるなんて思ってなくて……」

奈々が申し訳なさそうに言うのに、光啓は「君が悪いんじゃないよ」と諦めの深い笑みを浮かべた。

光啓が予想したとおり、涼佑はひとりの女性を伴って現れた。予想外だったのは、それが顔見知りだったことだ。

「志賀さん?」

「なんだお前、知り合い?」

ふたりの反応に涼佑は一瞬驚いたようで、興味津々といった様子で光啓と奈々を交互に見たが、その当事者ふたりのほうは、なんと説明したものかという顔でお互いの顔を見合わせた。

友人という間柄ではないが、ただの知り合いという浅い関係ではない。それどころか光啓の家族にとって小さくない縁があるのだが、同僚のひとりでしかない涼佑に家庭の事情まで伝える気は光啓にはないのだ。

「ええっと……まあ、そんなところです」

奈々のほうもそんな光啓の考えを察したらしくどう説明しようかと困ってるようだったが、当の涼佑のほうは関係についてはまったく興味はないらしく「だったらちょうどいいや」と単純に笑った。

「おれの取引先のスポーツ用品メーカーのおっさんが、保険のことで困ってる社員がいるから話だけでも聞いてやってほしいってさー」

「……それでなんで家につれてきたのさ」

「やー、話を聞くなら本人とするのが一番じゃん?」

もっともらしいことを言っているが、絶対自分で聞くのがめんどかっただけだろ、と光啓はじとりと涼佑を見たが、当の本人はまったく悪びれた風もない上「暇つぶしにもちょうどいいじゃん」などと言う始末だ。

「お前、いっつも休みの日は家でぼーっと暇してるだけじゃん」

「……別に、ぼーっとしてるわけでも、暇してるわけでもないよ」

「暇じゃないって、もしかしてあれか? お前も例のコード探しか」

『コード探し』とは、一年前にネットを騒がせた『宝探し』だ。

曰く、様々な場所に隠された秘密の言葉を集めた者は巨額の富を得ることができるという。

その額、約3兆2000億円。オリンピックが開催できる規模だ。

主催者は『Satoshi Nakamoto』……世界で最初の仮想通貨ビットコインの創始者にして、正体不明の天才だ。

突如としてネット上に現れ、仮想通貨技術を発表した彼(あるいは彼女)は、2011年4月以降、ネット上から姿を消した。

保有している莫大な価値を持つビットコインも手つかずのまま、10年以上が過ぎた1年前……Satoshi NakamotoはSNS上に現れた。

そして、実際にSatoshi Nakamotoが保有していたビットコインを“動かし”、本物であることを証明してみせた後、「全てのコードを集めた者に、私が保有しているビットコイン全てを譲渡する」と残し、再びその消息を断ってしまった。

「あれから一年も経ってるんだよ。あんな雲を掴むような話、本気にしてる人なんてもういなくなったんじゃないの?」

「だから狙い目なんじゃねえか。競争は少ない方がいいだろ。それにお前、変な知識めっちゃあるし、謎解きとか好きじゃんか」

「……その話は置いといて」

このままだと協力させられる流れになりそうだったので、変に逸れてしまった話題を戻すように、光啓は視線を奈々の抱える荷物に向けた。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「だってそうでも言わないとお前、引き受けてくれないだろ?」

「当たり前でしょ、休みなんだから」

このお調子者に何度振り回されたことか。光啓はあからさまな溜息を吐き出した。

見た目だけはお人好しそうなイケメンだから頼みやすいのか、この男がこうして取引先からのお願いごとやら厄介ごとを持ちかけられては気安く受けて、光啓に丸投げしてくるのはいつものことだ。それがごくごく僅かではあるもののちゃんと仕事に繋がることがあるので、まったく無視することもできないのが厄介なところなのだ。

(けど……今回のこれは明らかにハズレだよなあ)

涼佑もそれがわかっているから理由を話さなかったのだろう。貴重な休日を潰されたイライラがまたひとつ深まって、光啓はちくりと刺すように涼佑を睨んだ。

「なんでこう、安請け合いしちゃうかな」

「困ったときはお互い様だろ?」

「それを解決してるの僕だけどね」

「あの! ね!」

どんどん光啓の空気が剣呑になっていく気配を感じてか、奈々がやや強引にふたりの間に割って入った。

「とりあえず、話、聞いてもらって良いかな」

「あ……うん、そうだね」

確かにこのままふたりで言い合いをしていたところで休日が消えていくだけなので、仕方なく奈々の提案に頷いたものの、彼女が抱えている包みの形と大きさから、光啓は何となくこの先の展開がわかっていた。

奈々がその包みをテーブルの上で開いていく。

「これなんですけど……」

そうして広げられたのは、光啓の予想していた通り一枚の絵画だった。なんとも言えないような色使いをした油絵らしい作品と成金趣味な額縁を前にげんなりしている光啓の様子には気付かず、奈々は誰かから渡されたらしいメモを取り出して説明する。

「えーと……これ、今まではぱっとしてこなかったけどインフルエンサーがSNSで紹介してから話題になってる18世紀の画家の作品なんだそうです。元々数が少なかったせいもあって、有名な画廊でも作品が手に入らないらしくて、希少価値が……」

「……つまり、この絵に保険を掛けたいって話だよね?」

持ち主の自慢げな顔が見えそうな長ったらしいメモを律儀に読み上げる奈々に、光啓は思わず遮った。

「でも、どうして志賀さんが?」

「持ち主の人がね、盗まれたりしたらどうしようって困ってたから、話を聞いてる内に頼まれちゃって……」

絵は「鑑定が必要かもしれないから」と半ば強引に渡されたらしい。こんな個人的なことでわざわざ光啓に連絡したら迷惑だろうと悩んでいたら、それが社長の目に留まって涼佑の耳に入ってここまで連れて来られた、というのが顛末らしい。本人は遠慮したのに光啓の元にやって来たというのだから、苦笑するしかない。

「美術品なら動産総合保険になるかな……たぶん掛け捨てになると思うけど大丈夫?」

「……やっぱり高いですか?」

奈々の不安げな声に、やはり心配ごとはそこだよな、と思いながら光啓は「ごめん」と素直に頭を下げた。

「こういうのは代理店の仕事で、俺みたいな本社営業じゃ直接扱ってはないからね。僕じゃちょっとそこまではわからないよ」

「お前、骨董品とか好きじゃ無かったっけ。鑑定とかできねーの?」

「専門外。保険にかかる金額は、絵画の値段や価値とイコールじゃないし」

「そっかあ……」

がっかりした様子の奈々に、申し訳ないような気持ちになったが、そもそ涼佑が最初からきちんと話を聞いていれば、無駄足を踏ませることはなかったのだ。内心で溜息をつきながら光啓は手帳を開きながら続ける。

「まあ、何人か専門を知ってるから、良さそうな代理店を紹介するよ」

「ありがとうございます!」

「さっすが芥川、頼りになるわー」

気楽に喜ぶ同僚の調子の良さに本日何度目かわからない溜息をつきながら、光啓はもうほとんど冷めかけの紅茶を口にし、ふと口を開いた。

「――それにしても、複製品にわざわざ保険を掛けるなんて、よっぽどその絵が気に入ったんだね、その人」

「「え?」」

光啓の声に、ふたりの驚いた声が重なる。

「複製……!?」

「……聞いてないの?」

「ほ……本物だって聞いてますけど」

奈々の困惑した表情に、光啓は眉を寄せた。

「……残念だけど、贋作(がんさく)を掴まされたみたいだね」

光啓の言葉は容赦がない。

「となると、どこで買ったのかが問題だなあ。うちの取引先で引っかかる人が出ないよう注意喚起しておきたいから、できればその人に買った経緯を教えてもらいたいんだけど……」

光啓の関心がすでに別の方向へ動いている中で、涼佑は戸惑いを隠せない様子でソファーから立ち上がった。

「なあ、どうして本物じゃ無いってわかったんだ?」

「どうしてって……んー、まず美術品に保険をかけるのを他人任せにしちゃうような人が、そんな希少価値の高い作品をホイホイ手に入れられると思えないから、怪しいと思ったんだよね」

さんざんな評価に奈々がちょっと複雑な顔をしたのに気付かず、奈々が光啓はトントンと額縁を指で叩く。

「さっきの説明だと……18世紀の作家なんだよね? それにしては額縁の時代が古すぎてズレてるし、逆に油絵の具の劣化がなさ過ぎる。少しのひび割れも無いのは不自然だし……この贋作を作ったの、本職じゃないのかな? あとは……ちょっと失礼……ああ、やっぱり」

目を丸くするふたりをよそに、光啓は絵を裏返して額縁の裏を外すとひとり納得して頷いた。

「わりと最近作ったやつだね、これ」

「最近!?」

もうほとんど悲鳴のようになったふたりの声に、光啓は淡々と説明を続ける。

「キャンバス地が真新しいでしょ。最近になって人気が出て、手に入りにくくなったのに目をつけた誰かが、儲かると思って作ったんじゃないかな……ん?」

他に何かおかしなところは無いだろうかと、隅々まで眺めていた、その時だ。

絵画の角度を変えた瞬間、その違和感が光啓の目に留まった。

(今、何か見えたような……)

疑問に思ってよく目をこらすと、絵の具の盛り上がった箇所が光を受けて何かの形を浮かび上がらせたのだとわかる。そこに意図的なものを感じて、あらゆる角度へと絵を傾けていくと、それはある規則性をもって光啓の前にその疑問を提示した。

「アルファベット……? h……o……――」

光啓はその文字を紙に書き出していく。

「howdo,youtrust……妙なところで区切られているけど……How do you trustかな?」

『どうやって信用する?』

それはまるで光啓自身にそう問いかけてくるようで、光啓はこのメッセージを仕込んだ者に奇妙な興味を抱いたのだった。

1

■第一話

その駄菓子屋には、ツケというシステムがあった。

記憶力に自信がなくなっていた店主の老婆は、どの子が何をツケで買ったかを台帳に書き留めていた。

ある日、悪い子供がこっそりと老婆の台帳を書き換えてしまい、駄菓子屋は大混乱に陥った。

そこで駄菓子屋の平和を願う子供たちは二度と同じことが起こらぬよう、ツケの情報を老婆ひとりではなく子供たち全員で管理することにした。

全員が台帳持ち、『同じ情報』が『同時に複数』存在するようにしたのだ。

更に、情報を更新する時は台帳の持ち主の半数以上が確認をしてから、というルールも決めた。

これで悪い子供がまた台帳の書き換えを企んだところで、正しい情報が失われることはなくなった。

「――とまあ、ビットコインとかで使われてるブロックチェーンの大雑把な考え方としてはこんな感じかな。台帳の新しいページ作りをしてくれた子にはお菓子をあげるとか、これを実現するために必要な諸々の仕組みはあるけど……。ともかく、直接のハッキングによるリスクがないってメリットがあるんだ」

そう告げた芥川 光啓(あくたがわ みつひろ)の前で、志賀 奈々(しが なな)は、うん、と真剣な表情で頷き。

「子どもたちにツケを許してくれる優しいお婆ちゃんのお店が守られて本当に良かった……!」

「そうだね……例え話の中のお店だけど」

「あ、でも説明のほうも、“たぶん”理解できました!」

「良かったよ。それで……僕が気になってるのは、『Satoshi Nakamoto』は何故この仕組みを作り、自分が何者かを伏せたまま世に放ったのかってこと……」

光啓は自身のスマホの画面に目を落とし、そこに映し出された文字の向こう側にいる人物に語りかけるように続けた。

「そこに、何か大きなヒントがある気がするんだ……」

開かれたメッセージアプリには『未来に光を』という文字だけが淡い光の中にあった。

一ヶ月前――

落ち着いた色合いのカーテンとラグ、木目の美しいテーブル、柔らかさにこだわったソファ。

快適な休日を過ごすためにと勤め人になってからこだわりをもって整えられたリビング。今は事情があって素材にこだわる余裕はなくなってしまってはいるが、ここでゆっくりと紅茶とお気に入りのクラシックを嗜むのが、激務の日々を送る光啓のささやかな楽しみだった。

……のだが。

「……何?」

唐突に電話をかけてきた相手の男に対し、光啓は不機嫌の隠しきれていない声で言った。

『なあ、急で悪いんだけど、ちょっと頼みがあってさ。今……』

「僕、休みなんだけど」

男は何かを説明しようとしていたが、光啓は話を聞く前に慌てて口を挟んだ。それも仕方ないだろう。同僚の泉 涼佑(いずみ りょうすけ)が持ってくる「頼みごと」は毎度ろくなことがないからだ。

「せめて、明日出勤してからに……」

『理由は説明できねーけど、めっちゃくちゃ緊急なんだよ! ってわけで今からそっち行くから、よろしく!』

「ちょ、ちょっと待っ……あ」

なんとか断ろうとする光啓を無視して、涼佑は一方的にまくしたてて通話を切ってしまった。

「相変わらず人の話を聞かないんだから……」

困った相手だが、それがわかっていて電話に出ないという選択をしなかった自分のせいでもある。のんびりと音楽鑑賞をするのを諦めて、涼佑と、恐らく彼が「頼みごと」と共に連れてくるのだろう誰かのためにカップを用意するのだった。

「……それで」

光啓は向かいのソファに腰掛けたふたりの客人を前に溜息を吐き出した。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「ごめんなさい! まさかこんなことになるなんて思ってなくて……」

奈々が申し訳なさそうに言うのに、光啓は「君が悪いんじゃないよ」と諦めの深い笑みを浮かべた。

光啓が予想したとおり、涼佑はひとりの女性を伴って現れた。予想外だったのは、それが顔見知りだったことだ。

「志賀さん?」

「なんだお前、知り合い?」

ふたりの反応に涼佑は一瞬驚いたようで、興味津々といった様子で光啓と奈々を交互に見たが、その当事者ふたりのほうは、なんと説明したものかという顔でお互いの顔を見合わせた。

友人という間柄ではないが、ただの知り合いという浅い関係ではない。それどころか光啓の家族にとって小さくない縁があるのだが、同僚のひとりでしかない涼佑に家庭の事情まで伝える気は光啓にはないのだ。

「ええっと……まあ、そんなところです」

奈々のほうもそんな光啓の考えを察したらしくどう説明しようかと困ってるようだったが、当の涼佑のほうは関係についてはまったく興味はないらしく「だったらちょうどいいや」と単純に笑った。

「おれの取引先のスポーツ用品メーカーのおっさんが、保険のことで困ってる社員がいるから話だけでも聞いてやってほしいってさー」

「……それでなんで家につれてきたのさ」

「やー、話を聞くなら本人とするのが一番じゃん?」

もっともらしいことを言っているが、絶対自分で聞くのがめんどかっただけだろ、と光啓はじとりと涼佑を見たが、当の本人はまったく悪びれた風もない上「暇つぶしにもちょうどいいじゃん」などと言う始末だ。

「お前、いっつも休みの日は家でぼーっと暇してるだけじゃん」

「……別に、ぼーっとしてるわけでも、暇してるわけでもないよ」

「暇じゃないって、もしかしてあれか? お前も例のコード探しか」

『コード探し』とは、一年前にネットを騒がせた『宝探し』だ。

曰く、様々な場所に隠された秘密の言葉を集めた者は巨額の富を得ることができるという。

その額、約3兆2000億円。オリンピックが開催できる規模だ。

主催者は『Satoshi Nakamoto』……世界で最初の仮想通貨ビットコインの創始者にして、正体不明の天才だ。

突如としてネット上に現れ、仮想通貨技術を発表した彼(あるいは彼女)は、2011年4月以降、ネット上から姿を消した。

保有している莫大な価値を持つビットコインも手つかずのまま、10年以上が過ぎた1年前……Satoshi NakamotoはSNS上に現れた。

そして、実際にSatoshi Nakamotoが保有していたビットコインを“動かし”、本物であることを証明してみせた後、「全てのコードを集めた者に、私が保有しているビットコイン全てを譲渡する」と残し、再びその消息を断ってしまった。

「あれから一年も経ってるんだよ。あんな雲を掴むような話、本気にしてる人なんてもういなくなったんじゃないの?」

「だから狙い目なんじゃねえか。競争は少ない方がいいだろ。それにお前、変な知識めっちゃあるし、謎解きとか好きじゃんか」

「……その話は置いといて」

このままだと協力させられる流れになりそうだったので、変に逸れてしまった話題を戻すように、光啓は視線を奈々の抱える荷物に向けた。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「だってそうでも言わないとお前、引き受けてくれないだろ?」

「当たり前でしょ、休みなんだから」

このお調子者に何度振り回されたことか。光啓はあからさまな溜息を吐き出した。

見た目だけはお人好しそうなイケメンだから頼みやすいのか、この男がこうして取引先からのお願いごとやら厄介ごとを持ちかけられては気安く受けて、光啓に丸投げしてくるのはいつものことだ。それがごくごく僅かではあるもののちゃんと仕事に繋がることがあるので、まったく無視することもできないのが厄介なところなのだ。

(けど……今回のこれは明らかにハズレだよなあ)

涼佑もそれがわかっているから理由を話さなかったのだろう。貴重な休日を潰されたイライラがまたひとつ深まって、光啓はちくりと刺すように涼佑を睨んだ。

「なんでこう、安請け合いしちゃうかな」

「困ったときはお互い様だろ?」

「それを解決してるの僕だけどね」

「あの! ね!」

どんどん光啓の空気が剣呑になっていく気配を感じてか、奈々がやや強引にふたりの間に割って入った。

「とりあえず、話、聞いてもらって良いかな」

「あ……うん、そうだね」

確かにこのままふたりで言い合いをしていたところで休日が消えていくだけなので、仕方なく奈々の提案に頷いたものの、彼女が抱えている包みの形と大きさから、光啓は何となくこの先の展開がわかっていた。

奈々がその包みをテーブルの上で開いていく。

「これなんですけど……」

そうして広げられたのは、光啓の予想していた通り一枚の絵画だった。なんとも言えないような色使いをした油絵らしい作品と成金趣味な額縁を前にげんなりしている光啓の様子には気付かず、奈々は誰かから渡されたらしいメモを取り出して説明する。

「えーと……これ、今まではぱっとしてこなかったけどインフルエンサーがSNSで紹介してから話題になってる18世紀の画家の作品なんだそうです。元々数が少なかったせいもあって、有名な画廊でも作品が手に入らないらしくて、希少価値が……」

「……つまり、この絵に保険を掛けたいって話だよね?」

持ち主の自慢げな顔が見えそうな長ったらしいメモを律儀に読み上げる奈々に、光啓は思わず遮った。

「でも、どうして志賀さんが?」

「持ち主の人がね、盗まれたりしたらどうしようって困ってたから、話を聞いてる内に頼まれちゃって……」

絵は「鑑定が必要かもしれないから」と半ば強引に渡されたらしい。こんな個人的なことでわざわざ光啓に連絡したら迷惑だろうと悩んでいたら、それが社長の目に留まって涼佑の耳に入ってここまで連れて来られた、というのが顛末らしい。本人は遠慮したのに光啓の元にやって来たというのだから、苦笑するしかない。

「美術品なら動産総合保険になるかな……たぶん掛け捨てになると思うけど大丈夫?」

「……やっぱり高いですか?」

奈々の不安げな声に、やはり心配ごとはそこだよな、と思いながら光啓は「ごめん」と素直に頭を下げた。

「こういうのは代理店の仕事で、俺みたいな本社営業じゃ直接扱ってはないからね。僕じゃちょっとそこまではわからないよ」

「お前、骨董品とか好きじゃ無かったっけ。鑑定とかできねーの?」

「専門外。保険にかかる金額は、絵画の値段や価値とイコールじゃないし」

「そっかあ……」

がっかりした様子の奈々に、申し訳ないような気持ちになったが、そもそ涼佑が最初からきちんと話を聞いていれば、無駄足を踏ませることはなかったのだ。内心で溜息をつきながら光啓は手帳を開きながら続ける。

「まあ、何人か専門を知ってるから、良さそうな代理店を紹介するよ」

「ありがとうございます!」

「さっすが芥川、頼りになるわー」

気楽に喜ぶ同僚の調子の良さに本日何度目かわからない溜息をつきながら、光啓はもうほとんど冷めかけの紅茶を口にし、ふと口を開いた。

「――それにしても、複製品にわざわざ保険を掛けるなんて、よっぽどその絵が気に入ったんだね、その人」

「「え?」」

光啓の声に、ふたりの驚いた声が重なる。

「複製……!?」

「……聞いてないの?」

「ほ……本物だって聞いてますけど」

奈々の困惑した表情に、光啓は眉を寄せた。

「……残念だけど、贋作(がんさく)を掴まされたみたいだね」

光啓の言葉は容赦がない。

「となると、どこで買ったのかが問題だなあ。うちの取引先で引っかかる人が出ないよう注意喚起しておきたいから、できればその人に買った経緯を教えてもらいたいんだけど……」

光啓の関心がすでに別の方向へ動いている中で、涼佑は戸惑いを隠せない様子でソファーから立ち上がった。

「なあ、どうして本物じゃ無いってわかったんだ?」

「どうしてって……んー、まず美術品に保険をかけるのを他人任せにしちゃうような人が、そんな希少価値の高い作品をホイホイ手に入れられると思えないから、怪しいと思ったんだよね」

さんざんな評価に奈々がちょっと複雑な顔をしたのに気付かず、奈々が光啓はトントンと額縁を指で叩く。

「さっきの説明だと……18世紀の作家なんだよね? それにしては額縁の時代が古すぎてズレてるし、逆に油絵の具の劣化がなさ過ぎる。少しのひび割れも無いのは不自然だし……この贋作を作ったの、本職じゃないのかな? あとは……ちょっと失礼……ああ、やっぱり」

目を丸くするふたりをよそに、光啓は絵を裏返して額縁の裏を外すとひとり納得して頷いた。

「わりと最近作ったやつだね、これ」

「最近!?」

もうほとんど悲鳴のようになったふたりの声に、光啓は淡々と説明を続ける。

「キャンバス地が真新しいでしょ。最近になって人気が出て、手に入りにくくなったのに目をつけた誰かが、儲かると思って作ったんじゃないかな……ん?」

他に何かおかしなところは無いだろうかと、隅々まで眺めていた、その時だ。

絵画の角度を変えた瞬間、その違和感が光啓の目に留まった。

(今、何か見えたような……)

疑問に思ってよく目をこらすと、絵の具の盛り上がった箇所が光を受けて何かの形を浮かび上がらせたのだとわかる。そこに意図的なものを感じて、あらゆる角度へと絵を傾けていくと、それはある規則性をもって光啓の前にその疑問を提示した。

「アルファベット……? h……o……――」

光啓はその文字を紙に書き出していく。

「howdo,youtrust……妙なところで区切られているけど……How do you trustかな?」

『どうやって信用する?』

それはまるで光啓自身にそう問いかけてくるようで、光啓はこのメッセージを仕込んだ者に奇妙な興味を抱いたのだった。

1

■第一話

その駄菓子屋には、ツケというシステムがあった。

記憶力に自信がなくなっていた店主の老婆は、どの子が何をツケで買ったかを台帳に書き留めていた。

ある日、悪い子供がこっそりと老婆の台帳を書き換えてしまい、駄菓子屋は大混乱に陥った。

そこで駄菓子屋の平和を願う子供たちは二度と同じことが起こらぬよう、ツケの情報を老婆ひとりではなく子供たち全員で管理することにした。

全員が台帳持ち、『同じ情報』が『同時に複数』存在するようにしたのだ。

更に、情報を更新する時は台帳の持ち主の半数以上が確認をしてから、というルールも決めた。

これで悪い子供がまた台帳の書き換えを企んだところで、正しい情報が失われることはなくなった。

「――とまあ、ビットコインとかで使われてるブロックチェーンの大雑把な考え方としてはこんな感じかな。台帳の新しいページ作りをしてくれた子にはお菓子をあげるとか、これを実現するために必要な諸々の仕組みはあるけど……。ともかく、直接のハッキングによるリスクがないってメリットがあるんだ」

そう告げた芥川 光啓(あくたがわ みつひろ)の前で、志賀 奈々(しが なな)は、うん、と真剣な表情で頷き。

「子どもたちにツケを許してくれる優しいお婆ちゃんのお店が守られて本当に良かった……!」

「そうだね……例え話の中のお店だけど」

「あ、でも説明のほうも、“たぶん”理解できました!」

「良かったよ。それで……僕が気になってるのは、『Satoshi Nakamoto』は何故この仕組みを作り、自分が何者かを伏せたまま世に放ったのかってこと……」

光啓は自身のスマホの画面に目を落とし、そこに映し出された文字の向こう側にいる人物に語りかけるように続けた。

「そこに、何か大きなヒントがある気がするんだ……」

開かれたメッセージアプリには『未来に光を』という文字だけが淡い光の中にあった。

一ヶ月前――

落ち着いた色合いのカーテンとラグ、木目の美しいテーブル、柔らかさにこだわったソファ。

快適な休日を過ごすためにと勤め人になってからこだわりをもって整えられたリビング。今は事情があって素材にこだわる余裕はなくなってしまってはいるが、ここでゆっくりと紅茶とお気に入りのクラシックを嗜むのが、激務の日々を送る光啓のささやかな楽しみだった。

……のだが。

「……何?」

唐突に電話をかけてきた相手の男に対し、光啓は不機嫌の隠しきれていない声で言った。

『なあ、急で悪いんだけど、ちょっと頼みがあってさ。今……』

「僕、休みなんだけど」

男は何かを説明しようとしていたが、光啓は話を聞く前に慌てて口を挟んだ。それも仕方ないだろう。同僚の泉 涼佑(いずみ りょうすけ)が持ってくる「頼みごと」は毎度ろくなことがないからだ。

「せめて、明日出勤してからに……」

『理由は説明できねーけど、めっちゃくちゃ緊急なんだよ! ってわけで今からそっち行くから、よろしく!』

「ちょ、ちょっと待っ……あ」

なんとか断ろうとする光啓を無視して、涼佑は一方的にまくしたてて通話を切ってしまった。

「相変わらず人の話を聞かないんだから……」

困った相手だが、それがわかっていて電話に出ないという選択をしなかった自分のせいでもある。のんびりと音楽鑑賞をするのを諦めて、涼佑と、恐らく彼が「頼みごと」と共に連れてくるのだろう誰かのためにカップを用意するのだった。

「……それで」

光啓は向かいのソファに腰掛けたふたりの客人を前に溜息を吐き出した。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「ごめんなさい! まさかこんなことになるなんて思ってなくて……」

奈々が申し訳なさそうに言うのに、光啓は「君が悪いんじゃないよ」と諦めの深い笑みを浮かべた。

光啓が予想したとおり、涼佑はひとりの女性を伴って現れた。予想外だったのは、それが顔見知りだったことだ。

「志賀さん?」

「なんだお前、知り合い?」

ふたりの反応に涼佑は一瞬驚いたようで、興味津々といった様子で光啓と奈々を交互に見たが、その当事者ふたりのほうは、なんと説明したものかという顔でお互いの顔を見合わせた。

友人という間柄ではないが、ただの知り合いという浅い関係ではない。それどころか光啓の家族にとって小さくない縁があるのだが、同僚のひとりでしかない涼佑に家庭の事情まで伝える気は光啓にはないのだ。

「ええっと……まあ、そんなところです」

奈々のほうもそんな光啓の考えを察したらしくどう説明しようかと困ってるようだったが、当の涼佑のほうは関係についてはまったく興味はないらしく「だったらちょうどいいや」と単純に笑った。

「おれの取引先のスポーツ用品メーカーのおっさんが、保険のことで困ってる社員がいるから話だけでも聞いてやってほしいってさー」

「……それでなんで家につれてきたのさ」

「やー、話を聞くなら本人とするのが一番じゃん?」

もっともらしいことを言っているが、絶対自分で聞くのがめんどかっただけだろ、と光啓はじとりと涼佑を見たが、当の本人はまったく悪びれた風もない上「暇つぶしにもちょうどいいじゃん」などと言う始末だ。

「お前、いっつも休みの日は家でぼーっと暇してるだけじゃん」

「……別に、ぼーっとしてるわけでも、暇してるわけでもないよ」

「暇じゃないって、もしかしてあれか? お前も例のコード探しか」

『コード探し』とは、一年前にネットを騒がせた『宝探し』だ。

曰く、様々な場所に隠された秘密の言葉を集めた者は巨額の富を得ることができるという。

その額、約3兆2000億円。オリンピックが開催できる規模だ。

主催者は『Satoshi Nakamoto』……世界で最初の仮想通貨ビットコインの創始者にして、正体不明の天才だ。

突如としてネット上に現れ、仮想通貨技術を発表した彼(あるいは彼女)は、2011年4月以降、ネット上から姿を消した。

保有している莫大な価値を持つビットコインも手つかずのまま、10年以上が過ぎた1年前……Satoshi NakamotoはSNS上に現れた。

そして、実際にSatoshi Nakamotoが保有していたビットコインを“動かし”、本物であることを証明してみせた後、「全てのコードを集めた者に、私が保有しているビットコイン全てを譲渡する」と残し、再びその消息を断ってしまった。

「あれから一年も経ってるんだよ。あんな雲を掴むような話、本気にしてる人なんてもういなくなったんじゃないの?」

「だから狙い目なんじゃねえか。競争は少ない方がいいだろ。それにお前、変な知識めっちゃあるし、謎解きとか好きじゃんか」

「……その話は置いといて」

このままだと協力させられる流れになりそうだったので、変に逸れてしまった話題を戻すように、光啓は視線を奈々の抱える荷物に向けた。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「だってそうでも言わないとお前、引き受けてくれないだろ?」

「当たり前でしょ、休みなんだから」

このお調子者に何度振り回されたことか。光啓はあからさまな溜息を吐き出した。

見た目だけはお人好しそうなイケメンだから頼みやすいのか、この男がこうして取引先からのお願いごとやら厄介ごとを持ちかけられては気安く受けて、光啓に丸投げしてくるのはいつものことだ。それがごくごく僅かではあるもののちゃんと仕事に繋がることがあるので、まったく無視することもできないのが厄介なところなのだ。

(けど……今回のこれは明らかにハズレだよなあ)

涼佑もそれがわかっているから理由を話さなかったのだろう。貴重な休日を潰されたイライラがまたひとつ深まって、光啓はちくりと刺すように涼佑を睨んだ。

「なんでこう、安請け合いしちゃうかな」

「困ったときはお互い様だろ?」

「それを解決してるの僕だけどね」

「あの! ね!」

どんどん光啓の空気が剣呑になっていく気配を感じてか、奈々がやや強引にふたりの間に割って入った。

「とりあえず、話、聞いてもらって良いかな」

「あ……うん、そうだね」

確かにこのままふたりで言い合いをしていたところで休日が消えていくだけなので、仕方なく奈々の提案に頷いたものの、彼女が抱えている包みの形と大きさから、光啓は何となくこの先の展開がわかっていた。

奈々がその包みをテーブルの上で開いていく。

「これなんですけど……」

そうして広げられたのは、光啓の予想していた通り一枚の絵画だった。なんとも言えないような色使いをした油絵らしい作品と成金趣味な額縁を前にげんなりしている光啓の様子には気付かず、奈々は誰かから渡されたらしいメモを取り出して説明する。

「えーと……これ、今まではぱっとしてこなかったけどインフルエンサーがSNSで紹介してから話題になってる18世紀の画家の作品なんだそうです。元々数が少なかったせいもあって、有名な画廊でも作品が手に入らないらしくて、希少価値が……」

「……つまり、この絵に保険を掛けたいって話だよね?」

持ち主の自慢げな顔が見えそうな長ったらしいメモを律儀に読み上げる奈々に、光啓は思わず遮った。

「でも、どうして志賀さんが?」

「持ち主の人がね、盗まれたりしたらどうしようって困ってたから、話を聞いてる内に頼まれちゃって……」

絵は「鑑定が必要かもしれないから」と半ば強引に渡されたらしい。こんな個人的なことでわざわざ光啓に連絡したら迷惑だろうと悩んでいたら、それが社長の目に留まって涼佑の耳に入ってここまで連れて来られた、というのが顛末らしい。本人は遠慮したのに光啓の元にやって来たというのだから、苦笑するしかない。

「美術品なら動産総合保険になるかな……たぶん掛け捨てになると思うけど大丈夫?」

「……やっぱり高いですか?」

奈々の不安げな声に、やはり心配ごとはそこだよな、と思いながら光啓は「ごめん」と素直に頭を下げた。

「こういうのは代理店の仕事で、俺みたいな本社営業じゃ直接扱ってはないからね。僕じゃちょっとそこまではわからないよ」

「お前、骨董品とか好きじゃ無かったっけ。鑑定とかできねーの?」

「専門外。保険にかかる金額は、絵画の値段や価値とイコールじゃないし」

「そっかあ……」

がっかりした様子の奈々に、申し訳ないような気持ちになったが、そもそ涼佑が最初からきちんと話を聞いていれば、無駄足を踏ませることはなかったのだ。内心で溜息をつきながら光啓は手帳を開きながら続ける。

「まあ、何人か専門を知ってるから、良さそうな代理店を紹介するよ」

「ありがとうございます!」

「さっすが芥川、頼りになるわー」

気楽に喜ぶ同僚の調子の良さに本日何度目かわからない溜息をつきながら、光啓はもうほとんど冷めかけの紅茶を口にし、ふと口を開いた。

「――それにしても、複製品にわざわざ保険を掛けるなんて、よっぽどその絵が気に入ったんだね、その人」

「「え?」」

光啓の声に、ふたりの驚いた声が重なる。

「複製……!?」

「……聞いてないの?」

「ほ……本物だって聞いてますけど」

奈々の困惑した表情に、光啓は眉を寄せた。

「……残念だけど、贋作(がんさく)を掴まされたみたいだね」

光啓の言葉は容赦がない。

「となると、どこで買ったのかが問題だなあ。うちの取引先で引っかかる人が出ないよう注意喚起しておきたいから、できればその人に買った経緯を教えてもらいたいんだけど……」

光啓の関心がすでに別の方向へ動いている中で、涼佑は戸惑いを隠せない様子でソファーから立ち上がった。

「なあ、どうして本物じゃ無いってわかったんだ?」

「どうしてって……んー、まず美術品に保険をかけるのを他人任せにしちゃうような人が、そんな希少価値の高い作品をホイホイ手に入れられると思えないから、怪しいと思ったんだよね」

さんざんな評価に奈々がちょっと複雑な顔をしたのに気付かず、奈々が光啓はトントンと額縁を指で叩く。

「さっきの説明だと……18世紀の作家なんだよね? それにしては額縁の時代が古すぎてズレてるし、逆に油絵の具の劣化がなさ過ぎる。少しのひび割れも無いのは不自然だし……この贋作を作ったの、本職じゃないのかな? あとは……ちょっと失礼……ああ、やっぱり」

目を丸くするふたりをよそに、光啓は絵を裏返して額縁の裏を外すとひとり納得して頷いた。

「わりと最近作ったやつだね、これ」

「最近!?」

もうほとんど悲鳴のようになったふたりの声に、光啓は淡々と説明を続ける。

「キャンバス地が真新しいでしょ。最近になって人気が出て、手に入りにくくなったのに目をつけた誰かが、儲かると思って作ったんじゃないかな……ん?」

他に何かおかしなところは無いだろうかと、隅々まで眺めていた、その時だ。

絵画の角度を変えた瞬間、その違和感が光啓の目に留まった。

(今、何か見えたような……)

疑問に思ってよく目をこらすと、絵の具の盛り上がった箇所が光を受けて何かの形を浮かび上がらせたのだとわかる。そこに意図的なものを感じて、あらゆる角度へと絵を傾けていくと、それはある規則性をもって光啓の前にその疑問を提示した。

「アルファベット……? h……o……――」

光啓はその文字を紙に書き出していく。

「howdo,youtrust……妙なところで区切られているけど……How do you trustかな?」

『どうやって信用する?』

それはまるで光啓自身にそう問いかけてくるようで、光啓はこのメッセージを仕込んだ者に奇妙な興味を抱いたのだった。

1

■第一話

その駄菓子屋には、ツケというシステムがあった。

記憶力に自信がなくなっていた店主の老婆は、どの子が何をツケで買ったかを台帳に書き留めていた。

ある日、悪い子供がこっそりと老婆の台帳を書き換えてしまい、駄菓子屋は大混乱に陥った。

そこで駄菓子屋の平和を願う子供たちは二度と同じことが起こらぬよう、ツケの情報を老婆ひとりではなく子供たち全員で管理することにした。

全員が台帳持ち、『同じ情報』が『同時に複数』存在するようにしたのだ。

更に、情報を更新する時は台帳の持ち主の半数以上が確認をしてから、というルールも決めた。

これで悪い子供がまた台帳の書き換えを企んだところで、正しい情報が失われることはなくなった。

「――とまあ、ビットコインとかで使われてるブロックチェーンの大雑把な考え方としてはこんな感じかな。台帳の新しいページ作りをしてくれた子にはお菓子をあげるとか、これを実現するために必要な諸々の仕組みはあるけど……。ともかく、直接のハッキングによるリスクがないってメリットがあるんだ」

そう告げた芥川 光啓(あくたがわ みつひろ)の前で、志賀 奈々(しが なな)は、うん、と真剣な表情で頷き。

「子どもたちにツケを許してくれる優しいお婆ちゃんのお店が守られて本当に良かった……!」

「そうだね……例え話の中のお店だけど」

「あ、でも説明のほうも、“たぶん”理解できました!」

「良かったよ。それで……僕が気になってるのは、『Satoshi Nakamoto』は何故この仕組みを作り、自分が何者かを伏せたまま世に放ったのかってこと……」

光啓は自身のスマホの画面に目を落とし、そこに映し出された文字の向こう側にいる人物に語りかけるように続けた。

「そこに、何か大きなヒントがある気がするんだ……」

開かれたメッセージアプリには『未来に光を』という文字だけが淡い光の中にあった。

一ヶ月前――

落ち着いた色合いのカーテンとラグ、木目の美しいテーブル、柔らかさにこだわったソファ。

快適な休日を過ごすためにと勤め人になってからこだわりをもって整えられたリビング。今は事情があって素材にこだわる余裕はなくなってしまってはいるが、ここでゆっくりと紅茶とお気に入りのクラシックを嗜むのが、激務の日々を送る光啓のささやかな楽しみだった。

……のだが。

「……何?」

唐突に電話をかけてきた相手の男に対し、光啓は不機嫌の隠しきれていない声で言った。

『なあ、急で悪いんだけど、ちょっと頼みがあってさ。今……』

「僕、休みなんだけど」

男は何かを説明しようとしていたが、光啓は話を聞く前に慌てて口を挟んだ。それも仕方ないだろう。同僚の泉 涼佑(いずみ りょうすけ)が持ってくる「頼みごと」は毎度ろくなことがないからだ。

「せめて、明日出勤してからに……」

『理由は説明できねーけど、めっちゃくちゃ緊急なんだよ! ってわけで今からそっち行くから、よろしく!』

「ちょ、ちょっと待っ……あ」

なんとか断ろうとする光啓を無視して、涼佑は一方的にまくしたてて通話を切ってしまった。

「相変わらず人の話を聞かないんだから……」

困った相手だが、それがわかっていて電話に出ないという選択をしなかった自分のせいでもある。のんびりと音楽鑑賞をするのを諦めて、涼佑と、恐らく彼が「頼みごと」と共に連れてくるのだろう誰かのためにカップを用意するのだった。

「……それで」

光啓は向かいのソファに腰掛けたふたりの客人を前に溜息を吐き出した。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「ごめんなさい! まさかこんなことになるなんて思ってなくて……」

奈々が申し訳なさそうに言うのに、光啓は「君が悪いんじゃないよ」と諦めの深い笑みを浮かべた。

光啓が予想したとおり、涼佑はひとりの女性を伴って現れた。予想外だったのは、それが顔見知りだったことだ。

「志賀さん?」

「なんだお前、知り合い?」

ふたりの反応に涼佑は一瞬驚いたようで、興味津々といった様子で光啓と奈々を交互に見たが、その当事者ふたりのほうは、なんと説明したものかという顔でお互いの顔を見合わせた。

友人という間柄ではないが、ただの知り合いという浅い関係ではない。それどころか光啓の家族にとって小さくない縁があるのだが、同僚のひとりでしかない涼佑に家庭の事情まで伝える気は光啓にはないのだ。

「ええっと……まあ、そんなところです」

奈々のほうもそんな光啓の考えを察したらしくどう説明しようかと困ってるようだったが、当の涼佑のほうは関係についてはまったく興味はないらしく「だったらちょうどいいや」と単純に笑った。

「おれの取引先のスポーツ用品メーカーのおっさんが、保険のことで困ってる社員がいるから話だけでも聞いてやってほしいってさー」

「……それでなんで家につれてきたのさ」

「やー、話を聞くなら本人とするのが一番じゃん?」

もっともらしいことを言っているが、絶対自分で聞くのがめんどかっただけだろ、と光啓はじとりと涼佑を見たが、当の本人はまったく悪びれた風もない上「暇つぶしにもちょうどいいじゃん」などと言う始末だ。

「お前、いっつも休みの日は家でぼーっと暇してるだけじゃん」

「……別に、ぼーっとしてるわけでも、暇してるわけでもないよ」

「暇じゃないって、もしかしてあれか? お前も例のコード探しか」

『コード探し』とは、一年前にネットを騒がせた『宝探し』だ。

曰く、様々な場所に隠された秘密の言葉を集めた者は巨額の富を得ることができるという。

その額、約3兆2000億円。オリンピックが開催できる規模だ。

主催者は『Satoshi Nakamoto』……世界で最初の仮想通貨ビットコインの創始者にして、正体不明の天才だ。

突如としてネット上に現れ、仮想通貨技術を発表した彼(あるいは彼女)は、2011年4月以降、ネット上から姿を消した。

保有している莫大な価値を持つビットコインも手つかずのまま、10年以上が過ぎた1年前……Satoshi NakamotoはSNS上に現れた。

そして、実際にSatoshi Nakamotoが保有していたビットコインを“動かし”、本物であることを証明してみせた後、「全てのコードを集めた者に、私が保有しているビットコイン全てを譲渡する」と残し、再びその消息を断ってしまった。

「あれから一年も経ってるんだよ。あんな雲を掴むような話、本気にしてる人なんてもういなくなったんじゃないの?」

「だから狙い目なんじゃねえか。競争は少ない方がいいだろ。それにお前、変な知識めっちゃあるし、謎解きとか好きじゃんか」

「……その話は置いといて」

このままだと協力させられる流れになりそうだったので、変に逸れてしまった話題を戻すように、光啓は視線を奈々の抱える荷物に向けた。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「だってそうでも言わないとお前、引き受けてくれないだろ?」

「当たり前でしょ、休みなんだから」

このお調子者に何度振り回されたことか。光啓はあからさまな溜息を吐き出した。

見た目だけはお人好しそうなイケメンだから頼みやすいのか、この男がこうして取引先からのお願いごとやら厄介ごとを持ちかけられては気安く受けて、光啓に丸投げしてくるのはいつものことだ。それがごくごく僅かではあるもののちゃんと仕事に繋がることがあるので、まったく無視することもできないのが厄介なところなのだ。

(けど……今回のこれは明らかにハズレだよなあ)

涼佑もそれがわかっているから理由を話さなかったのだろう。貴重な休日を潰されたイライラがまたひとつ深まって、光啓はちくりと刺すように涼佑を睨んだ。

「なんでこう、安請け合いしちゃうかな」

「困ったときはお互い様だろ?」

「それを解決してるの僕だけどね」

「あの! ね!」

どんどん光啓の空気が剣呑になっていく気配を感じてか、奈々がやや強引にふたりの間に割って入った。

「とりあえず、話、聞いてもらって良いかな」

「あ……うん、そうだね」

確かにこのままふたりで言い合いをしていたところで休日が消えていくだけなので、仕方なく奈々の提案に頷いたものの、彼女が抱えている包みの形と大きさから、光啓は何となくこの先の展開がわかっていた。

奈々がその包みをテーブルの上で開いていく。

「これなんですけど……」

そうして広げられたのは、光啓の予想していた通り一枚の絵画だった。なんとも言えないような色使いをした油絵らしい作品と成金趣味な額縁を前にげんなりしている光啓の様子には気付かず、奈々は誰かから渡されたらしいメモを取り出して説明する。

「えーと……これ、今まではぱっとしてこなかったけどインフルエンサーがSNSで紹介してから話題になってる18世紀の画家の作品なんだそうです。元々数が少なかったせいもあって、有名な画廊でも作品が手に入らないらしくて、希少価値が……」

「……つまり、この絵に保険を掛けたいって話だよね?」

持ち主の自慢げな顔が見えそうな長ったらしいメモを律儀に読み上げる奈々に、光啓は思わず遮った。

「でも、どうして志賀さんが?」

「持ち主の人がね、盗まれたりしたらどうしようって困ってたから、話を聞いてる内に頼まれちゃって……」

絵は「鑑定が必要かもしれないから」と半ば強引に渡されたらしい。こんな個人的なことでわざわざ光啓に連絡したら迷惑だろうと悩んでいたら、それが社長の目に留まって涼佑の耳に入ってここまで連れて来られた、というのが顛末らしい。本人は遠慮したのに光啓の元にやって来たというのだから、苦笑するしかない。

「美術品なら動産総合保険になるかな……たぶん掛け捨てになると思うけど大丈夫?」

「……やっぱり高いですか?」

奈々の不安げな声に、やはり心配ごとはそこだよな、と思いながら光啓は「ごめん」と素直に頭を下げた。

「こういうのは代理店の仕事で、俺みたいな本社営業じゃ直接扱ってはないからね。僕じゃちょっとそこまではわからないよ」

「お前、骨董品とか好きじゃ無かったっけ。鑑定とかできねーの?」

「専門外。保険にかかる金額は、絵画の値段や価値とイコールじゃないし」

「そっかあ……」

がっかりした様子の奈々に、申し訳ないような気持ちになったが、そもそ涼佑が最初からきちんと話を聞いていれば、無駄足を踏ませることはなかったのだ。内心で溜息をつきながら光啓は手帳を開きながら続ける。

「まあ、何人か専門を知ってるから、良さそうな代理店を紹介するよ」

「ありがとうございます!」

「さっすが芥川、頼りになるわー」

気楽に喜ぶ同僚の調子の良さに本日何度目かわからない溜息をつきながら、光啓はもうほとんど冷めかけの紅茶を口にし、ふと口を開いた。

「――それにしても、複製品にわざわざ保険を掛けるなんて、よっぽどその絵が気に入ったんだね、その人」

「「え?」」

光啓の声に、ふたりの驚いた声が重なる。

「複製……!?」

「……聞いてないの?」

「ほ……本物だって聞いてますけど」

奈々の困惑した表情に、光啓は眉を寄せた。

「……残念だけど、贋作(がんさく)を掴まされたみたいだね」

光啓の言葉は容赦がない。

「となると、どこで買ったのかが問題だなあ。うちの取引先で引っかかる人が出ないよう注意喚起しておきたいから、できればその人に買った経緯を教えてもらいたいんだけど……」

光啓の関心がすでに別の方向へ動いている中で、涼佑は戸惑いを隠せない様子でソファーから立ち上がった。

「なあ、どうして本物じゃ無いってわかったんだ?」

「どうしてって……んー、まず美術品に保険をかけるのを他人任せにしちゃうような人が、そんな希少価値の高い作品をホイホイ手に入れられると思えないから、怪しいと思ったんだよね」

さんざんな評価に奈々がちょっと複雑な顔をしたのに気付かず、奈々が光啓はトントンと額縁を指で叩く。

「さっきの説明だと……18世紀の作家なんだよね? それにしては額縁の時代が古すぎてズレてるし、逆に油絵の具の劣化がなさ過ぎる。少しのひび割れも無いのは不自然だし……この贋作を作ったの、本職じゃないのかな? あとは……ちょっと失礼……ああ、やっぱり」

目を丸くするふたりをよそに、光啓は絵を裏返して額縁の裏を外すとひとり納得して頷いた。

「わりと最近作ったやつだね、これ」

「最近!?」

もうほとんど悲鳴のようになったふたりの声に、光啓は淡々と説明を続ける。

「キャンバス地が真新しいでしょ。最近になって人気が出て、手に入りにくくなったのに目をつけた誰かが、儲かると思って作ったんじゃないかな……ん?」

他に何かおかしなところは無いだろうかと、隅々まで眺めていた、その時だ。

絵画の角度を変えた瞬間、その違和感が光啓の目に留まった。

(今、何か見えたような……)

疑問に思ってよく目をこらすと、絵の具の盛り上がった箇所が光を受けて何かの形を浮かび上がらせたのだとわかる。そこに意図的なものを感じて、あらゆる角度へと絵を傾けていくと、それはある規則性をもって光啓の前にその疑問を提示した。

「アルファベット……? h……o……――」

光啓はその文字を紙に書き出していく。

「howdo,youtrust……妙なところで区切られているけど……How do you trustかな?」

『どうやって信用する?』

それはまるで光啓自身にそう問いかけてくるようで、光啓はこのメッセージを仕込んだ者に奇妙な興味を抱いたのだった。

1

■第一話

その駄菓子屋には、ツケというシステムがあった。

記憶力に自信がなくなっていた店主の老婆は、どの子が何をツケで買ったかを台帳に書き留めていた。

ある日、悪い子供がこっそりと老婆の台帳を書き換えてしまい、駄菓子屋は大混乱に陥った。

そこで駄菓子屋の平和を願う子供たちは二度と同じことが起こらぬよう、ツケの情報を老婆ひとりではなく子供たち全員で管理することにした。

全員が台帳持ち、『同じ情報』が『同時に複数』存在するようにしたのだ。

更に、情報を更新する時は台帳の持ち主の半数以上が確認をしてから、というルールも決めた。

これで悪い子供がまた台帳の書き換えを企んだところで、正しい情報が失われることはなくなった。

「――とまあ、ビットコインとかで使われてるブロックチェーンの大雑把な考え方としてはこんな感じかな。台帳の新しいページ作りをしてくれた子にはお菓子をあげるとか、これを実現するために必要な諸々の仕組みはあるけど……。ともかく、直接のハッキングによるリスクがないってメリットがあるんだ」

そう告げた芥川 光啓(あくたがわ みつひろ)の前で、志賀 奈々(しが なな)は、うん、と真剣な表情で頷き。

「子どもたちにツケを許してくれる優しいお婆ちゃんのお店が守られて本当に良かった……!」

「そうだね……例え話の中のお店だけど」

「あ、でも説明のほうも、“たぶん”理解できました!」

「良かったよ。それで……僕が気になってるのは、『Satoshi Nakamoto』は何故この仕組みを作り、自分が何者かを伏せたまま世に放ったのかってこと……」

光啓は自身のスマホの画面に目を落とし、そこに映し出された文字の向こう側にいる人物に語りかけるように続けた。

「そこに、何か大きなヒントがある気がするんだ……」

開かれたメッセージアプリには『未来に光を』という文字だけが淡い光の中にあった。

一ヶ月前――

落ち着いた色合いのカーテンとラグ、木目の美しいテーブル、柔らかさにこだわったソファ。

快適な休日を過ごすためにと勤め人になってからこだわりをもって整えられたリビング。今は事情があって素材にこだわる余裕はなくなってしまってはいるが、ここでゆっくりと紅茶とお気に入りのクラシックを嗜むのが、激務の日々を送る光啓のささやかな楽しみだった。

……のだが。

「……何?」

唐突に電話をかけてきた相手の男に対し、光啓は不機嫌の隠しきれていない声で言った。

『なあ、急で悪いんだけど、ちょっと頼みがあってさ。今……』

「僕、休みなんだけど」

男は何かを説明しようとしていたが、光啓は話を聞く前に慌てて口を挟んだ。それも仕方ないだろう。同僚の泉 涼佑(いずみ りょうすけ)が持ってくる「頼みごと」は毎度ろくなことがないからだ。

「せめて、明日出勤してからに……」

『理由は説明できねーけど、めっちゃくちゃ緊急なんだよ! ってわけで今からそっち行くから、よろしく!』

「ちょ、ちょっと待っ……あ」

なんとか断ろうとする光啓を無視して、涼佑は一方的にまくしたてて通話を切ってしまった。

「相変わらず人の話を聞かないんだから……」

困った相手だが、それがわかっていて電話に出ないという選択をしなかった自分のせいでもある。のんびりと音楽鑑賞をするのを諦めて、涼佑と、恐らく彼が「頼みごと」と共に連れてくるのだろう誰かのためにカップを用意するのだった。

「……それで」

光啓は向かいのソファに腰掛けたふたりの客人を前に溜息を吐き出した。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「ごめんなさい! まさかこんなことになるなんて思ってなくて……」

奈々が申し訳なさそうに言うのに、光啓は「君が悪いんじゃないよ」と諦めの深い笑みを浮かべた。

光啓が予想したとおり、涼佑はひとりの女性を伴って現れた。予想外だったのは、それが顔見知りだったことだ。

「志賀さん?」

「なんだお前、知り合い?」

ふたりの反応に涼佑は一瞬驚いたようで、興味津々といった様子で光啓と奈々を交互に見たが、その当事者ふたりのほうは、なんと説明したものかという顔でお互いの顔を見合わせた。

友人という間柄ではないが、ただの知り合いという浅い関係ではない。それどころか光啓の家族にとって小さくない縁があるのだが、同僚のひとりでしかない涼佑に家庭の事情まで伝える気は光啓にはないのだ。

「ええっと……まあ、そんなところです」

奈々のほうもそんな光啓の考えを察したらしくどう説明しようかと困ってるようだったが、当の涼佑のほうは関係についてはまったく興味はないらしく「だったらちょうどいいや」と単純に笑った。

「おれの取引先のスポーツ用品メーカーのおっさんが、保険のことで困ってる社員がいるから話だけでも聞いてやってほしいってさー」

「……それでなんで家につれてきたのさ」

「やー、話を聞くなら本人とするのが一番じゃん?」

もっともらしいことを言っているが、絶対自分で聞くのがめんどかっただけだろ、と光啓はじとりと涼佑を見たが、当の本人はまったく悪びれた風もない上「暇つぶしにもちょうどいいじゃん」などと言う始末だ。

「お前、いっつも休みの日は家でぼーっと暇してるだけじゃん」

「……別に、ぼーっとしてるわけでも、暇してるわけでもないよ」

「暇じゃないって、もしかしてあれか? お前も例のコード探しか」

『コード探し』とは、一年前にネットを騒がせた『宝探し』だ。

曰く、様々な場所に隠された秘密の言葉を集めた者は巨額の富を得ることができるという。

その額、約3兆2000億円。オリンピックが開催できる規模だ。

主催者は『Satoshi Nakamoto』……世界で最初の仮想通貨ビットコインの創始者にして、正体不明の天才だ。

突如としてネット上に現れ、仮想通貨技術を発表した彼(あるいは彼女)は、2011年4月以降、ネット上から姿を消した。

保有している莫大な価値を持つビットコインも手つかずのまま、10年以上が過ぎた1年前……Satoshi NakamotoはSNS上に現れた。

そして、実際にSatoshi Nakamotoが保有していたビットコインを“動かし”、本物であることを証明してみせた後、「全てのコードを集めた者に、私が保有しているビットコイン全てを譲渡する」と残し、再びその消息を断ってしまった。

「あれから一年も経ってるんだよ。あんな雲を掴むような話、本気にしてる人なんてもういなくなったんじゃないの?」

「だから狙い目なんじゃねえか。競争は少ない方がいいだろ。それにお前、変な知識めっちゃあるし、謎解きとか好きじゃんか」

「……その話は置いといて」

このままだと協力させられる流れになりそうだったので、変に逸れてしまった話題を戻すように、光啓は視線を奈々の抱える荷物に向けた。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「だってそうでも言わないとお前、引き受けてくれないだろ?」

「当たり前でしょ、休みなんだから」

このお調子者に何度振り回されたことか。光啓はあからさまな溜息を吐き出した。

見た目だけはお人好しそうなイケメンだから頼みやすいのか、この男がこうして取引先からのお願いごとやら厄介ごとを持ちかけられては気安く受けて、光啓に丸投げしてくるのはいつものことだ。それがごくごく僅かではあるもののちゃんと仕事に繋がることがあるので、まったく無視することもできないのが厄介なところなのだ。

(けど……今回のこれは明らかにハズレだよなあ)

涼佑もそれがわかっているから理由を話さなかったのだろう。貴重な休日を潰されたイライラがまたひとつ深まって、光啓はちくりと刺すように涼佑を睨んだ。

「なんでこう、安請け合いしちゃうかな」

「困ったときはお互い様だろ?」

「それを解決してるの僕だけどね」

「あの! ね!」

どんどん光啓の空気が剣呑になっていく気配を感じてか、奈々がやや強引にふたりの間に割って入った。

「とりあえず、話、聞いてもらって良いかな」

「あ……うん、そうだね」

確かにこのままふたりで言い合いをしていたところで休日が消えていくだけなので、仕方なく奈々の提案に頷いたものの、彼女が抱えている包みの形と大きさから、光啓は何となくこの先の展開がわかっていた。

奈々がその包みをテーブルの上で開いていく。

「これなんですけど……」

そうして広げられたのは、光啓の予想していた通り一枚の絵画だった。なんとも言えないような色使いをした油絵らしい作品と成金趣味な額縁を前にげんなりしている光啓の様子には気付かず、奈々は誰かから渡されたらしいメモを取り出して説明する。

「えーと……これ、今まではぱっとしてこなかったけどインフルエンサーがSNSで紹介してから話題になってる18世紀の画家の作品なんだそうです。元々数が少なかったせいもあって、有名な画廊でも作品が手に入らないらしくて、希少価値が……」

「……つまり、この絵に保険を掛けたいって話だよね?」

持ち主の自慢げな顔が見えそうな長ったらしいメモを律儀に読み上げる奈々に、光啓は思わず遮った。

「でも、どうして志賀さんが?」

「持ち主の人がね、盗まれたりしたらどうしようって困ってたから、話を聞いてる内に頼まれちゃって……」

絵は「鑑定が必要かもしれないから」と半ば強引に渡されたらしい。こんな個人的なことでわざわざ光啓に連絡したら迷惑だろうと悩んでいたら、それが社長の目に留まって涼佑の耳に入ってここまで連れて来られた、というのが顛末らしい。本人は遠慮したのに光啓の元にやって来たというのだから、苦笑するしかない。

「美術品なら動産総合保険になるかな……たぶん掛け捨てになると思うけど大丈夫?」

「……やっぱり高いですか?」

奈々の不安げな声に、やはり心配ごとはそこだよな、と思いながら光啓は「ごめん」と素直に頭を下げた。

「こういうのは代理店の仕事で、俺みたいな本社営業じゃ直接扱ってはないからね。僕じゃちょっとそこまではわからないよ」

「お前、骨董品とか好きじゃ無かったっけ。鑑定とかできねーの?」

「専門外。保険にかかる金額は、絵画の値段や価値とイコールじゃないし」

「そっかあ……」

がっかりした様子の奈々に、申し訳ないような気持ちになったが、そもそ涼佑が最初からきちんと話を聞いていれば、無駄足を踏ませることはなかったのだ。内心で溜息をつきながら光啓は手帳を開きながら続ける。

「まあ、何人か専門を知ってるから、良さそうな代理店を紹介するよ」

「ありがとうございます!」

「さっすが芥川、頼りになるわー」

気楽に喜ぶ同僚の調子の良さに本日何度目かわからない溜息をつきながら、光啓はもうほとんど冷めかけの紅茶を口にし、ふと口を開いた。

「――それにしても、複製品にわざわざ保険を掛けるなんて、よっぽどその絵が気に入ったんだね、その人」

「「え?」」

光啓の声に、ふたりの驚いた声が重なる。

「複製……!?」

「……聞いてないの?」

「ほ……本物だって聞いてますけど」

奈々の困惑した表情に、光啓は眉を寄せた。

「……残念だけど、贋作(がんさく)を掴まされたみたいだね」

光啓の言葉は容赦がない。

「となると、どこで買ったのかが問題だなあ。うちの取引先で引っかかる人が出ないよう注意喚起しておきたいから、できればその人に買った経緯を教えてもらいたいんだけど……」

光啓の関心がすでに別の方向へ動いている中で、涼佑は戸惑いを隠せない様子でソファーから立ち上がった。

「なあ、どうして本物じゃ無いってわかったんだ?」

「どうしてって……んー、まず美術品に保険をかけるのを他人任せにしちゃうような人が、そんな希少価値の高い作品をホイホイ手に入れられると思えないから、怪しいと思ったんだよね」

さんざんな評価に奈々がちょっと複雑な顔をしたのに気付かず、奈々が光啓はトントンと額縁を指で叩く。

「さっきの説明だと……18世紀の作家なんだよね? それにしては額縁の時代が古すぎてズレてるし、逆に油絵の具の劣化がなさ過ぎる。少しのひび割れも無いのは不自然だし……この贋作を作ったの、本職じゃないのかな? あとは……ちょっと失礼……ああ、やっぱり」

目を丸くするふたりをよそに、光啓は絵を裏返して額縁の裏を外すとひとり納得して頷いた。

「わりと最近作ったやつだね、これ」

「最近!?」

もうほとんど悲鳴のようになったふたりの声に、光啓は淡々と説明を続ける。

「キャンバス地が真新しいでしょ。最近になって人気が出て、手に入りにくくなったのに目をつけた誰かが、儲かると思って作ったんじゃないかな……ん?」

他に何かおかしなところは無いだろうかと、隅々まで眺めていた、その時だ。

絵画の角度を変えた瞬間、その違和感が光啓の目に留まった。

(今、何か見えたような……)

疑問に思ってよく目をこらすと、絵の具の盛り上がった箇所が光を受けて何かの形を浮かび上がらせたのだとわかる。そこに意図的なものを感じて、あらゆる角度へと絵を傾けていくと、それはある規則性をもって光啓の前にその疑問を提示した。

「アルファベット……? h……o……――」

光啓はその文字を紙に書き出していく。

「howdo,youtrust……妙なところで区切られているけど……How do you trustかな?」

『どうやって信用する?』

それはまるで光啓自身にそう問いかけてくるようで、光啓はこのメッセージを仕込んだ者に奇妙な興味を抱いたのだった。

1

■第一話

その駄菓子屋には、ツケというシステムがあった。

記憶力に自信がなくなっていた店主の老婆は、どの子が何をツケで買ったかを台帳に書き留めていた。

ある日、悪い子供がこっそりと老婆の台帳を書き換えてしまい、駄菓子屋は大混乱に陥った。

そこで駄菓子屋の平和を願う子供たちは二度と同じことが起こらぬよう、ツケの情報を老婆ひとりではなく子供たち全員で管理することにした。

全員が台帳持ち、『同じ情報』が『同時に複数』存在するようにしたのだ。

更に、情報を更新する時は台帳の持ち主の半数以上が確認をしてから、というルールも決めた。

これで悪い子供がまた台帳の書き換えを企んだところで、正しい情報が失われることはなくなった。

「――とまあ、ビットコインとかで使われてるブロックチェーンの大雑把な考え方としてはこんな感じかな。台帳の新しいページ作りをしてくれた子にはお菓子をあげるとか、これを実現するために必要な諸々の仕組みはあるけど……。ともかく、直接のハッキングによるリスクがないってメリットがあるんだ」

そう告げた芥川 光啓(あくたがわ みつひろ)の前で、志賀 奈々(しが なな)は、うん、と真剣な表情で頷き。

「子どもたちにツケを許してくれる優しいお婆ちゃんのお店が守られて本当に良かった……!」

「そうだね……例え話の中のお店だけど」

「あ、でも説明のほうも、“たぶん”理解できました!」

「良かったよ。それで……僕が気になってるのは、『Satoshi Nakamoto』は何故この仕組みを作り、自分が何者かを伏せたまま世に放ったのかってこと……」

光啓は自身のスマホの画面に目を落とし、そこに映し出された文字の向こう側にいる人物に語りかけるように続けた。

「そこに、何か大きなヒントがある気がするんだ……」

開かれたメッセージアプリには『未来に光を』という文字だけが淡い光の中にあった。

一ヶ月前――

落ち着いた色合いのカーテンとラグ、木目の美しいテーブル、柔らかさにこだわったソファ。

快適な休日を過ごすためにと勤め人になってからこだわりをもって整えられたリビング。今は事情があって素材にこだわる余裕はなくなってしまってはいるが、ここでゆっくりと紅茶とお気に入りのクラシックを嗜むのが、激務の日々を送る光啓のささやかな楽しみだった。

……のだが。

「……何?」

唐突に電話をかけてきた相手の男に対し、光啓は不機嫌の隠しきれていない声で言った。

『なあ、急で悪いんだけど、ちょっと頼みがあってさ。今……』

「僕、休みなんだけど」

男は何かを説明しようとしていたが、光啓は話を聞く前に慌てて口を挟んだ。それも仕方ないだろう。同僚の泉 涼佑(いずみ りょうすけ)が持ってくる「頼みごと」は毎度ろくなことがないからだ。

「せめて、明日出勤してからに……」

『理由は説明できねーけど、めっちゃくちゃ緊急なんだよ! ってわけで今からそっち行くから、よろしく!』

「ちょ、ちょっと待っ……あ」

なんとか断ろうとする光啓を無視して、涼佑は一方的にまくしたてて通話を切ってしまった。

「相変わらず人の話を聞かないんだから……」

困った相手だが、それがわかっていて電話に出ないという選択をしなかった自分のせいでもある。のんびりと音楽鑑賞をするのを諦めて、涼佑と、恐らく彼が「頼みごと」と共に連れてくるのだろう誰かのためにカップを用意するのだった。

「……それで」

光啓は向かいのソファに腰掛けたふたりの客人を前に溜息を吐き出した。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「ごめんなさい! まさかこんなことになるなんて思ってなくて……」

奈々が申し訳なさそうに言うのに、光啓は「君が悪いんじゃないよ」と諦めの深い笑みを浮かべた。

光啓が予想したとおり、涼佑はひとりの女性を伴って現れた。予想外だったのは、それが顔見知りだったことだ。

「志賀さん?」

「なんだお前、知り合い?」

ふたりの反応に涼佑は一瞬驚いたようで、興味津々といった様子で光啓と奈々を交互に見たが、その当事者ふたりのほうは、なんと説明したものかという顔でお互いの顔を見合わせた。

友人という間柄ではないが、ただの知り合いという浅い関係ではない。それどころか光啓の家族にとって小さくない縁があるのだが、同僚のひとりでしかない涼佑に家庭の事情まで伝える気は光啓にはないのだ。

「ええっと……まあ、そんなところです」

奈々のほうもそんな光啓の考えを察したらしくどう説明しようかと困ってるようだったが、当の涼佑のほうは関係についてはまったく興味はないらしく「だったらちょうどいいや」と単純に笑った。

「おれの取引先のスポーツ用品メーカーのおっさんが、保険のことで困ってる社員がいるから話だけでも聞いてやってほしいってさー」

「……それでなんで家につれてきたのさ」

「やー、話を聞くなら本人とするのが一番じゃん?」

もっともらしいことを言っているが、絶対自分で聞くのがめんどかっただけだろ、と光啓はじとりと涼佑を見たが、当の本人はまったく悪びれた風もない上「暇つぶしにもちょうどいいじゃん」などと言う始末だ。

「お前、いっつも休みの日は家でぼーっと暇してるだけじゃん」

「……別に、ぼーっとしてるわけでも、暇してるわけでもないよ」

「暇じゃないって、もしかしてあれか? お前も例のコード探しか」

『コード探し』とは、一年前にネットを騒がせた『宝探し』だ。

曰く、様々な場所に隠された秘密の言葉を集めた者は巨額の富を得ることができるという。

その額、約3兆2000億円。オリンピックが開催できる規模だ。

主催者は『Satoshi Nakamoto』……世界で最初の仮想通貨ビットコインの創始者にして、正体不明の天才だ。

突如としてネット上に現れ、仮想通貨技術を発表した彼(あるいは彼女)は、2011年4月以降、ネット上から姿を消した。

保有している莫大な価値を持つビットコインも手つかずのまま、10年以上が過ぎた1年前……Satoshi NakamotoはSNS上に現れた。

そして、実際にSatoshi Nakamotoが保有していたビットコインを“動かし”、本物であることを証明してみせた後、「全てのコードを集めた者に、私が保有しているビットコイン全てを譲渡する」と残し、再びその消息を断ってしまった。

「あれから一年も経ってるんだよ。あんな雲を掴むような話、本気にしてる人なんてもういなくなったんじゃないの?」

「だから狙い目なんじゃねえか。競争は少ない方がいいだろ。それにお前、変な知識めっちゃあるし、謎解きとか好きじゃんか」

「……その話は置いといて」

このままだと協力させられる流れになりそうだったので、変に逸れてしまった話題を戻すように、光啓は視線を奈々の抱える荷物に向けた。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「だってそうでも言わないとお前、引き受けてくれないだろ?」

「当たり前でしょ、休みなんだから」

このお調子者に何度振り回されたことか。光啓はあからさまな溜息を吐き出した。

見た目だけはお人好しそうなイケメンだから頼みやすいのか、この男がこうして取引先からのお願いごとやら厄介ごとを持ちかけられては気安く受けて、光啓に丸投げしてくるのはいつものことだ。それがごくごく僅かではあるもののちゃんと仕事に繋がることがあるので、まったく無視することもできないのが厄介なところなのだ。

(けど……今回のこれは明らかにハズレだよなあ)

涼佑もそれがわかっているから理由を話さなかったのだろう。貴重な休日を潰されたイライラがまたひとつ深まって、光啓はちくりと刺すように涼佑を睨んだ。

「なんでこう、安請け合いしちゃうかな」

「困ったときはお互い様だろ?」

「それを解決してるの僕だけどね」

「あの! ね!」

どんどん光啓の空気が剣呑になっていく気配を感じてか、奈々がやや強引にふたりの間に割って入った。

「とりあえず、話、聞いてもらって良いかな」

「あ……うん、そうだね」

確かにこのままふたりで言い合いをしていたところで休日が消えていくだけなので、仕方なく奈々の提案に頷いたものの、彼女が抱えている包みの形と大きさから、光啓は何となくこの先の展開がわかっていた。

奈々がその包みをテーブルの上で開いていく。

「これなんですけど……」

そうして広げられたのは、光啓の予想していた通り一枚の絵画だった。なんとも言えないような色使いをした油絵らしい作品と成金趣味な額縁を前にげんなりしている光啓の様子には気付かず、奈々は誰かから渡されたらしいメモを取り出して説明する。

「えーと……これ、今まではぱっとしてこなかったけどインフルエンサーがSNSで紹介してから話題になってる18世紀の画家の作品なんだそうです。元々数が少なかったせいもあって、有名な画廊でも作品が手に入らないらしくて、希少価値が……」

「……つまり、この絵に保険を掛けたいって話だよね?」

持ち主の自慢げな顔が見えそうな長ったらしいメモを律儀に読み上げる奈々に、光啓は思わず遮った。

「でも、どうして志賀さんが?」

「持ち主の人がね、盗まれたりしたらどうしようって困ってたから、話を聞いてる内に頼まれちゃって……」

絵は「鑑定が必要かもしれないから」と半ば強引に渡されたらしい。こんな個人的なことでわざわざ光啓に連絡したら迷惑だろうと悩んでいたら、それが社長の目に留まって涼佑の耳に入ってここまで連れて来られた、というのが顛末らしい。本人は遠慮したのに光啓の元にやって来たというのだから、苦笑するしかない。

「美術品なら動産総合保険になるかな……たぶん掛け捨てになると思うけど大丈夫?」

「……やっぱり高いですか?」

奈々の不安げな声に、やはり心配ごとはそこだよな、と思いながら光啓は「ごめん」と素直に頭を下げた。

「こういうのは代理店の仕事で、俺みたいな本社営業じゃ直接扱ってはないからね。僕じゃちょっとそこまではわからないよ」

「お前、骨董品とか好きじゃ無かったっけ。鑑定とかできねーの?」

「専門外。保険にかかる金額は、絵画の値段や価値とイコールじゃないし」

「そっかあ……」

がっかりした様子の奈々に、申し訳ないような気持ちになったが、そもそ涼佑が最初からきちんと話を聞いていれば、無駄足を踏ませることはなかったのだ。内心で溜息をつきながら光啓は手帳を開きながら続ける。

「まあ、何人か専門を知ってるから、良さそうな代理店を紹介するよ」

「ありがとうございます!」

「さっすが芥川、頼りになるわー」

気楽に喜ぶ同僚の調子の良さに本日何度目かわからない溜息をつきながら、光啓はもうほとんど冷めかけの紅茶を口にし、ふと口を開いた。

「――それにしても、複製品にわざわざ保険を掛けるなんて、よっぽどその絵が気に入ったんだね、その人」

「「え?」」

光啓の声に、ふたりの驚いた声が重なる。

「複製……!?」

「……聞いてないの?」

「ほ……本物だって聞いてますけど」

奈々の困惑した表情に、光啓は眉を寄せた。

「……残念だけど、贋作(がんさく)を掴まされたみたいだね」

光啓の言葉は容赦がない。

「となると、どこで買ったのかが問題だなあ。うちの取引先で引っかかる人が出ないよう注意喚起しておきたいから、できればその人に買った経緯を教えてもらいたいんだけど……」

光啓の関心がすでに別の方向へ動いている中で、涼佑は戸惑いを隠せない様子でソファーから立ち上がった。

「なあ、どうして本物じゃ無いってわかったんだ?」

「どうしてって……んー、まず美術品に保険をかけるのを他人任せにしちゃうような人が、そんな希少価値の高い作品をホイホイ手に入れられると思えないから、怪しいと思ったんだよね」

さんざんな評価に奈々がちょっと複雑な顔をしたのに気付かず、奈々が光啓はトントンと額縁を指で叩く。

「さっきの説明だと……18世紀の作家なんだよね? それにしては額縁の時代が古すぎてズレてるし、逆に油絵の具の劣化がなさ過ぎる。少しのひび割れも無いのは不自然だし……この贋作を作ったの、本職じゃないのかな? あとは……ちょっと失礼……ああ、やっぱり」

目を丸くするふたりをよそに、光啓は絵を裏返して額縁の裏を外すとひとり納得して頷いた。

「わりと最近作ったやつだね、これ」

「最近!?」

もうほとんど悲鳴のようになったふたりの声に、光啓は淡々と説明を続ける。

「キャンバス地が真新しいでしょ。最近になって人気が出て、手に入りにくくなったのに目をつけた誰かが、儲かると思って作ったんじゃないかな……ん?」

他に何かおかしなところは無いだろうかと、隅々まで眺めていた、その時だ。

絵画の角度を変えた瞬間、その違和感が光啓の目に留まった。

(今、何か見えたような……)

疑問に思ってよく目をこらすと、絵の具の盛り上がった箇所が光を受けて何かの形を浮かび上がらせたのだとわかる。そこに意図的なものを感じて、あらゆる角度へと絵を傾けていくと、それはある規則性をもって光啓の前にその疑問を提示した。

「アルファベット……? h……o……――」

光啓はその文字を紙に書き出していく。

「howdo,youtrust……妙なところで区切られているけど……How do you trustかな?」

『どうやって信用する?』

それはまるで光啓自身にそう問いかけてくるようで、光啓はこのメッセージを仕込んだ者に奇妙な興味を抱いたのだった。

1

■第一話

その駄菓子屋には、ツケというシステムがあった。

記憶力に自信がなくなっていた店主の老婆は、どの子が何をツケで買ったかを台帳に書き留めていた。

ある日、悪い子供がこっそりと老婆の台帳を書き換えてしまい、駄菓子屋は大混乱に陥った。

そこで駄菓子屋の平和を願う子供たちは二度と同じことが起こらぬよう、ツケの情報を老婆ひとりではなく子供たち全員で管理することにした。

全員が台帳持ち、『同じ情報』が『同時に複数』存在するようにしたのだ。

更に、情報を更新する時は台帳の持ち主の半数以上が確認をしてから、というルールも決めた。

これで悪い子供がまた台帳の書き換えを企んだところで、正しい情報が失われることはなくなった。

「――とまあ、ビットコインとかで使われてるブロックチェーンの大雑把な考え方としてはこんな感じかな。台帳の新しいページ作りをしてくれた子にはお菓子をあげるとか、これを実現するために必要な諸々の仕組みはあるけど……。ともかく、直接のハッキングによるリスクがないってメリットがあるんだ」

そう告げた芥川 光啓(あくたがわ みつひろ)の前で、志賀 奈々(しが なな)は、うん、と真剣な表情で頷き。

「子どもたちにツケを許してくれる優しいお婆ちゃんのお店が守られて本当に良かった……!」

「そうだね……例え話の中のお店だけど」

「あ、でも説明のほうも、“たぶん”理解できました!」

「良かったよ。それで……僕が気になってるのは、『Satoshi Nakamoto』は何故この仕組みを作り、自分が何者かを伏せたまま世に放ったのかってこと……」

光啓は自身のスマホの画面に目を落とし、そこに映し出された文字の向こう側にいる人物に語りかけるように続けた。

「そこに、何か大きなヒントがある気がするんだ……」

開かれたメッセージアプリには『未来に光を』という文字だけが淡い光の中にあった。

一ヶ月前――

落ち着いた色合いのカーテンとラグ、木目の美しいテーブル、柔らかさにこだわったソファ。

快適な休日を過ごすためにと勤め人になってからこだわりをもって整えられたリビング。今は事情があって素材にこだわる余裕はなくなってしまってはいるが、ここでゆっくりと紅茶とお気に入りのクラシックを嗜むのが、激務の日々を送る光啓のささやかな楽しみだった。

……のだが。

「……何?」

唐突に電話をかけてきた相手の男に対し、光啓は不機嫌の隠しきれていない声で言った。

『なあ、急で悪いんだけど、ちょっと頼みがあってさ。今……』

「僕、休みなんだけど」

男は何かを説明しようとしていたが、光啓は話を聞く前に慌てて口を挟んだ。それも仕方ないだろう。同僚の泉 涼佑(いずみ りょうすけ)が持ってくる「頼みごと」は毎度ろくなことがないからだ。

「せめて、明日出勤してからに……」

『理由は説明できねーけど、めっちゃくちゃ緊急なんだよ! ってわけで今からそっち行くから、よろしく!』

「ちょ、ちょっと待っ……あ」

なんとか断ろうとする光啓を無視して、涼佑は一方的にまくしたてて通話を切ってしまった。

「相変わらず人の話を聞かないんだから……」

困った相手だが、それがわかっていて電話に出ないという選択をしなかった自分のせいでもある。のんびりと音楽鑑賞をするのを諦めて、涼佑と、恐らく彼が「頼みごと」と共に連れてくるのだろう誰かのためにカップを用意するのだった。

「……それで」

光啓は向かいのソファに腰掛けたふたりの客人を前に溜息を吐き出した。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「ごめんなさい! まさかこんなことになるなんて思ってなくて……」

奈々が申し訳なさそうに言うのに、光啓は「君が悪いんじゃないよ」と諦めの深い笑みを浮かべた。

光啓が予想したとおり、涼佑はひとりの女性を伴って現れた。予想外だったのは、それが顔見知りだったことだ。

「志賀さん?」

「なんだお前、知り合い?」

ふたりの反応に涼佑は一瞬驚いたようで、興味津々といった様子で光啓と奈々を交互に見たが、その当事者ふたりのほうは、なんと説明したものかという顔でお互いの顔を見合わせた。

友人という間柄ではないが、ただの知り合いという浅い関係ではない。それどころか光啓の家族にとって小さくない縁があるのだが、同僚のひとりでしかない涼佑に家庭の事情まで伝える気は光啓にはないのだ。

「ええっと……まあ、そんなところです」

奈々のほうもそんな光啓の考えを察したらしくどう説明しようかと困ってるようだったが、当の涼佑のほうは関係についてはまったく興味はないらしく「だったらちょうどいいや」と単純に笑った。

「おれの取引先のスポーツ用品メーカーのおっさんが、保険のことで困ってる社員がいるから話だけでも聞いてやってほしいってさー」

「……それでなんで家につれてきたのさ」

「やー、話を聞くなら本人とするのが一番じゃん?」

もっともらしいことを言っているが、絶対自分で聞くのがめんどかっただけだろ、と光啓はじとりと涼佑を見たが、当の本人はまったく悪びれた風もない上「暇つぶしにもちょうどいいじゃん」などと言う始末だ。

「お前、いっつも休みの日は家でぼーっと暇してるだけじゃん」

「……別に、ぼーっとしてるわけでも、暇してるわけでもないよ」

「暇じゃないって、もしかしてあれか? お前も例のコード探しか」

『コード探し』とは、一年前にネットを騒がせた『宝探し』だ。

曰く、様々な場所に隠された秘密の言葉を集めた者は巨額の富を得ることができるという。

その額、約3兆2000億円。オリンピックが開催できる規模だ。

主催者は『Satoshi Nakamoto』……世界で最初の仮想通貨ビットコインの創始者にして、正体不明の天才だ。

突如としてネット上に現れ、仮想通貨技術を発表した彼(あるいは彼女)は、2011年4月以降、ネット上から姿を消した。

保有している莫大な価値を持つビットコインも手つかずのまま、10年以上が過ぎた1年前……Satoshi NakamotoはSNS上に現れた。

そして、実際にSatoshi Nakamotoが保有していたビットコインを“動かし”、本物であることを証明してみせた後、「全てのコードを集めた者に、私が保有しているビットコイン全てを譲渡する」と残し、再びその消息を断ってしまった。

「あれから一年も経ってるんだよ。あんな雲を掴むような話、本気にしてる人なんてもういなくなったんじゃないの?」

「だから狙い目なんじゃねえか。競争は少ない方がいいだろ。それにお前、変な知識めっちゃあるし、謎解きとか好きじゃんか」

「……その話は置いといて」

このままだと協力させられる流れになりそうだったので、変に逸れてしまった話題を戻すように、光啓は視線を奈々の抱える荷物に向けた。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「だってそうでも言わないとお前、引き受けてくれないだろ?」

「当たり前でしょ、休みなんだから」

このお調子者に何度振り回されたことか。光啓はあからさまな溜息を吐き出した。

見た目だけはお人好しそうなイケメンだから頼みやすいのか、この男がこうして取引先からのお願いごとやら厄介ごとを持ちかけられては気安く受けて、光啓に丸投げしてくるのはいつものことだ。それがごくごく僅かではあるもののちゃんと仕事に繋がることがあるので、まったく無視することもできないのが厄介なところなのだ。

(けど……今回のこれは明らかにハズレだよなあ)

涼佑もそれがわかっているから理由を話さなかったのだろう。貴重な休日を潰されたイライラがまたひとつ深まって、光啓はちくりと刺すように涼佑を睨んだ。

「なんでこう、安請け合いしちゃうかな」

「困ったときはお互い様だろ?」

「それを解決してるの僕だけどね」

「あの! ね!」

どんどん光啓の空気が剣呑になっていく気配を感じてか、奈々がやや強引にふたりの間に割って入った。

「とりあえず、話、聞いてもらって良いかな」

「あ……うん、そうだね」

確かにこのままふたりで言い合いをしていたところで休日が消えていくだけなので、仕方なく奈々の提案に頷いたものの、彼女が抱えている包みの形と大きさから、光啓は何となくこの先の展開がわかっていた。

奈々がその包みをテーブルの上で開いていく。

「これなんですけど……」

そうして広げられたのは、光啓の予想していた通り一枚の絵画だった。なんとも言えないような色使いをした油絵らしい作品と成金趣味な額縁を前にげんなりしている光啓の様子には気付かず、奈々は誰かから渡されたらしいメモを取り出して説明する。

「えーと……これ、今まではぱっとしてこなかったけどインフルエンサーがSNSで紹介してから話題になってる18世紀の画家の作品なんだそうです。元々数が少なかったせいもあって、有名な画廊でも作品が手に入らないらしくて、希少価値が……」

「……つまり、この絵に保険を掛けたいって話だよね?」

持ち主の自慢げな顔が見えそうな長ったらしいメモを律儀に読み上げる奈々に、光啓は思わず遮った。

「でも、どうして志賀さんが?」

「持ち主の人がね、盗まれたりしたらどうしようって困ってたから、話を聞いてる内に頼まれちゃって……」

絵は「鑑定が必要かもしれないから」と半ば強引に渡されたらしい。こんな個人的なことでわざわざ光啓に連絡したら迷惑だろうと悩んでいたら、それが社長の目に留まって涼佑の耳に入ってここまで連れて来られた、というのが顛末らしい。本人は遠慮したのに光啓の元にやって来たというのだから、苦笑するしかない。

「美術品なら動産総合保険になるかな……たぶん掛け捨てになると思うけど大丈夫?」

「……やっぱり高いですか?」

奈々の不安げな声に、やはり心配ごとはそこだよな、と思いながら光啓は「ごめん」と素直に頭を下げた。

「こういうのは代理店の仕事で、俺みたいな本社営業じゃ直接扱ってはないからね。僕じゃちょっとそこまではわからないよ」

「お前、骨董品とか好きじゃ無かったっけ。鑑定とかできねーの?」

「専門外。保険にかかる金額は、絵画の値段や価値とイコールじゃないし」

「そっかあ……」

がっかりした様子の奈々に、申し訳ないような気持ちになったが、そもそ涼佑が最初からきちんと話を聞いていれば、無駄足を踏ませることはなかったのだ。内心で溜息をつきながら光啓は手帳を開きながら続ける。

「まあ、何人か専門を知ってるから、良さそうな代理店を紹介するよ」

「ありがとうございます!」

「さっすが芥川、頼りになるわー」

気楽に喜ぶ同僚の調子の良さに本日何度目かわからない溜息をつきながら、光啓はもうほとんど冷めかけの紅茶を口にし、ふと口を開いた。

「――それにしても、複製品にわざわざ保険を掛けるなんて、よっぽどその絵が気に入ったんだね、その人」

「「え?」」

光啓の声に、ふたりの驚いた声が重なる。

「複製……!?」

「……聞いてないの?」

「ほ……本物だって聞いてますけど」

奈々の困惑した表情に、光啓は眉を寄せた。

「……残念だけど、贋作(がんさく)を掴まされたみたいだね」

光啓の言葉は容赦がない。

「となると、どこで買ったのかが問題だなあ。うちの取引先で引っかかる人が出ないよう注意喚起しておきたいから、できればその人に買った経緯を教えてもらいたいんだけど……」

光啓の関心がすでに別の方向へ動いている中で、涼佑は戸惑いを隠せない様子でソファーから立ち上がった。

「なあ、どうして本物じゃ無いってわかったんだ?」

「どうしてって……んー、まず美術品に保険をかけるのを他人任せにしちゃうような人が、そんな希少価値の高い作品をホイホイ手に入れられると思えないから、怪しいと思ったんだよね」

さんざんな評価に奈々がちょっと複雑な顔をしたのに気付かず、奈々が光啓はトントンと額縁を指で叩く。

「さっきの説明だと……18世紀の作家なんだよね? それにしては額縁の時代が古すぎてズレてるし、逆に油絵の具の劣化がなさ過ぎる。少しのひび割れも無いのは不自然だし……この贋作を作ったの、本職じゃないのかな? あとは……ちょっと失礼……ああ、やっぱり」

目を丸くするふたりをよそに、光啓は絵を裏返して額縁の裏を外すとひとり納得して頷いた。

「わりと最近作ったやつだね、これ」

「最近!?」

もうほとんど悲鳴のようになったふたりの声に、光啓は淡々と説明を続ける。

「キャンバス地が真新しいでしょ。最近になって人気が出て、手に入りにくくなったのに目をつけた誰かが、儲かると思って作ったんじゃないかな……ん?」

他に何かおかしなところは無いだろうかと、隅々まで眺めていた、その時だ。

絵画の角度を変えた瞬間、その違和感が光啓の目に留まった。

(今、何か見えたような……)

疑問に思ってよく目をこらすと、絵の具の盛り上がった箇所が光を受けて何かの形を浮かび上がらせたのだとわかる。そこに意図的なものを感じて、あらゆる角度へと絵を傾けていくと、それはある規則性をもって光啓の前にその疑問を提示した。

「アルファベット……? h……o……――」

光啓はその文字を紙に書き出していく。

「howdo,youtrust……妙なところで区切られているけど……How do you trustかな?」

『どうやって信用する?』

それはまるで光啓自身にそう問いかけてくるようで、光啓はこのメッセージを仕込んだ者に奇妙な興味を抱いたのだった。

1

■第一話

その駄菓子屋には、ツケというシステムがあった。

記憶力に自信がなくなっていた店主の老婆は、どの子が何をツケで買ったかを台帳に書き留めていた。

ある日、悪い子供がこっそりと老婆の台帳を書き換えてしまい、駄菓子屋は大混乱に陥った。

そこで駄菓子屋の平和を願う子供たちは二度と同じことが起こらぬよう、ツケの情報を老婆ひとりではなく子供たち全員で管理することにした。

全員が台帳持ち、『同じ情報』が『同時に複数』存在するようにしたのだ。

更に、情報を更新する時は台帳の持ち主の半数以上が確認をしてから、というルールも決めた。

これで悪い子供がまた台帳の書き換えを企んだところで、正しい情報が失われることはなくなった。

「――とまあ、ビットコインとかで使われてるブロックチェーンの大雑把な考え方としてはこんな感じかな。台帳の新しいページ作りをしてくれた子にはお菓子をあげるとか、これを実現するために必要な諸々の仕組みはあるけど……。ともかく、直接のハッキングによるリスクがないってメリットがあるんだ」

そう告げた芥川 光啓(あくたがわ みつひろ)の前で、志賀 奈々(しが なな)は、うん、と真剣な表情で頷き。

「子どもたちにツケを許してくれる優しいお婆ちゃんのお店が守られて本当に良かった……!」

「そうだね……例え話の中のお店だけど」

「あ、でも説明のほうも、“たぶん”理解できました!」

「良かったよ。それで……僕が気になってるのは、『Satoshi Nakamoto』は何故この仕組みを作り、自分が何者かを伏せたまま世に放ったのかってこと……」

光啓は自身のスマホの画面に目を落とし、そこに映し出された文字の向こう側にいる人物に語りかけるように続けた。

「そこに、何か大きなヒントがある気がするんだ……」

開かれたメッセージアプリには『未来に光を』という文字だけが淡い光の中にあった。

一ヶ月前――

落ち着いた色合いのカーテンとラグ、木目の美しいテーブル、柔らかさにこだわったソファ。

快適な休日を過ごすためにと勤め人になってからこだわりをもって整えられたリビング。今は事情があって素材にこだわる余裕はなくなってしまってはいるが、ここでゆっくりと紅茶とお気に入りのクラシックを嗜むのが、激務の日々を送る光啓のささやかな楽しみだった。

……のだが。

「……何?」

唐突に電話をかけてきた相手の男に対し、光啓は不機嫌の隠しきれていない声で言った。

『なあ、急で悪いんだけど、ちょっと頼みがあってさ。今……』

「僕、休みなんだけど」

男は何かを説明しようとしていたが、光啓は話を聞く前に慌てて口を挟んだ。それも仕方ないだろう。同僚の泉 涼佑(いずみ りょうすけ)が持ってくる「頼みごと」は毎度ろくなことがないからだ。

「せめて、明日出勤してからに……」

『理由は説明できねーけど、めっちゃくちゃ緊急なんだよ! ってわけで今からそっち行くから、よろしく!』

「ちょ、ちょっと待っ……あ」

なんとか断ろうとする光啓を無視して、涼佑は一方的にまくしたてて通話を切ってしまった。

「相変わらず人の話を聞かないんだから……」

困った相手だが、それがわかっていて電話に出ないという選択をしなかった自分のせいでもある。のんびりと音楽鑑賞をするのを諦めて、涼佑と、恐らく彼が「頼みごと」と共に連れてくるのだろう誰かのためにカップを用意するのだった。

「……それで」

光啓は向かいのソファに腰掛けたふたりの客人を前に溜息を吐き出した。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「ごめんなさい! まさかこんなことになるなんて思ってなくて……」

奈々が申し訳なさそうに言うのに、光啓は「君が悪いんじゃないよ」と諦めの深い笑みを浮かべた。

光啓が予想したとおり、涼佑はひとりの女性を伴って現れた。予想外だったのは、それが顔見知りだったことだ。

「志賀さん?」

「なんだお前、知り合い?」

ふたりの反応に涼佑は一瞬驚いたようで、興味津々といった様子で光啓と奈々を交互に見たが、その当事者ふたりのほうは、なんと説明したものかという顔でお互いの顔を見合わせた。

友人という間柄ではないが、ただの知り合いという浅い関係ではない。それどころか光啓の家族にとって小さくない縁があるのだが、同僚のひとりでしかない涼佑に家庭の事情まで伝える気は光啓にはないのだ。

「ええっと……まあ、そんなところです」

奈々のほうもそんな光啓の考えを察したらしくどう説明しようかと困ってるようだったが、当の涼佑のほうは関係についてはまったく興味はないらしく「だったらちょうどいいや」と単純に笑った。

「おれの取引先のスポーツ用品メーカーのおっさんが、保険のことで困ってる社員がいるから話だけでも聞いてやってほしいってさー」

「……それでなんで家につれてきたのさ」

「やー、話を聞くなら本人とするのが一番じゃん?」

もっともらしいことを言っているが、絶対自分で聞くのがめんどかっただけだろ、と光啓はじとりと涼佑を見たが、当の本人はまったく悪びれた風もない上「暇つぶしにもちょうどいいじゃん」などと言う始末だ。

「お前、いっつも休みの日は家でぼーっと暇してるだけじゃん」

「……別に、ぼーっとしてるわけでも、暇してるわけでもないよ」

「暇じゃないって、もしかしてあれか? お前も例のコード探しか」

『コード探し』とは、一年前にネットを騒がせた『宝探し』だ。

曰く、様々な場所に隠された秘密の言葉を集めた者は巨額の富を得ることができるという。

その額、約3兆2000億円。オリンピックが開催できる規模だ。

主催者は『Satoshi Nakamoto』……世界で最初の仮想通貨ビットコインの創始者にして、正体不明の天才だ。

突如としてネット上に現れ、仮想通貨技術を発表した彼(あるいは彼女)は、2011年4月以降、ネット上から姿を消した。

保有している莫大な価値を持つビットコインも手つかずのまま、10年以上が過ぎた1年前……Satoshi NakamotoはSNS上に現れた。

そして、実際にSatoshi Nakamotoが保有していたビットコインを“動かし”、本物であることを証明してみせた後、「全てのコードを集めた者に、私が保有しているビットコイン全てを譲渡する」と残し、再びその消息を断ってしまった。

「あれから一年も経ってるんだよ。あんな雲を掴むような話、本気にしてる人なんてもういなくなったんじゃないの?」

「だから狙い目なんじゃねえか。競争は少ない方がいいだろ。それにお前、変な知識めっちゃあるし、謎解きとか好きじゃんか」

「……その話は置いといて」

このままだと協力させられる流れになりそうだったので、変に逸れてしまった話題を戻すように、光啓は視線を奈々の抱える荷物に向けた。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「だってそうでも言わないとお前、引き受けてくれないだろ?」

「当たり前でしょ、休みなんだから」

このお調子者に何度振り回されたことか。光啓はあからさまな溜息を吐き出した。

見た目だけはお人好しそうなイケメンだから頼みやすいのか、この男がこうして取引先からのお願いごとやら厄介ごとを持ちかけられては気安く受けて、光啓に丸投げしてくるのはいつものことだ。それがごくごく僅かではあるもののちゃんと仕事に繋がることがあるので、まったく無視することもできないのが厄介なところなのだ。

(けど……今回のこれは明らかにハズレだよなあ)

涼佑もそれがわかっているから理由を話さなかったのだろう。貴重な休日を潰されたイライラがまたひとつ深まって、光啓はちくりと刺すように涼佑を睨んだ。

「なんでこう、安請け合いしちゃうかな」

「困ったときはお互い様だろ?」

「それを解決してるの僕だけどね」

「あの! ね!」

どんどん光啓の空気が剣呑になっていく気配を感じてか、奈々がやや強引にふたりの間に割って入った。

「とりあえず、話、聞いてもらって良いかな」

「あ……うん、そうだね」

確かにこのままふたりで言い合いをしていたところで休日が消えていくだけなので、仕方なく奈々の提案に頷いたものの、彼女が抱えている包みの形と大きさから、光啓は何となくこの先の展開がわかっていた。

奈々がその包みをテーブルの上で開いていく。

「これなんですけど……」

そうして広げられたのは、光啓の予想していた通り一枚の絵画だった。なんとも言えないような色使いをした油絵らしい作品と成金趣味な額縁を前にげんなりしている光啓の様子には気付かず、奈々は誰かから渡されたらしいメモを取り出して説明する。

「えーと……これ、今まではぱっとしてこなかったけどインフルエンサーがSNSで紹介してから話題になってる18世紀の画家の作品なんだそうです。元々数が少なかったせいもあって、有名な画廊でも作品が手に入らないらしくて、希少価値が……」

「……つまり、この絵に保険を掛けたいって話だよね?」

持ち主の自慢げな顔が見えそうな長ったらしいメモを律儀に読み上げる奈々に、光啓は思わず遮った。

「でも、どうして志賀さんが?」

「持ち主の人がね、盗まれたりしたらどうしようって困ってたから、話を聞いてる内に頼まれちゃって……」

絵は「鑑定が必要かもしれないから」と半ば強引に渡されたらしい。こんな個人的なことでわざわざ光啓に連絡したら迷惑だろうと悩んでいたら、それが社長の目に留まって涼佑の耳に入ってここまで連れて来られた、というのが顛末らしい。本人は遠慮したのに光啓の元にやって来たというのだから、苦笑するしかない。

「美術品なら動産総合保険になるかな……たぶん掛け捨てになると思うけど大丈夫?」

「……やっぱり高いですか?」

奈々の不安げな声に、やはり心配ごとはそこだよな、と思いながら光啓は「ごめん」と素直に頭を下げた。

「こういうのは代理店の仕事で、俺みたいな本社営業じゃ直接扱ってはないからね。僕じゃちょっとそこまではわからないよ」

「お前、骨董品とか好きじゃ無かったっけ。鑑定とかできねーの?」

「専門外。保険にかかる金額は、絵画の値段や価値とイコールじゃないし」

「そっかあ……」

がっかりした様子の奈々に、申し訳ないような気持ちになったが、そもそ涼佑が最初からきちんと話を聞いていれば、無駄足を踏ませることはなかったのだ。内心で溜息をつきながら光啓は手帳を開きながら続ける。

「まあ、何人か専門を知ってるから、良さそうな代理店を紹介するよ」

「ありがとうございます!」

「さっすが芥川、頼りになるわー」

気楽に喜ぶ同僚の調子の良さに本日何度目かわからない溜息をつきながら、光啓はもうほとんど冷めかけの紅茶を口にし、ふと口を開いた。

「――それにしても、複製品にわざわざ保険を掛けるなんて、よっぽどその絵が気に入ったんだね、その人」

「「え?」」

光啓の声に、ふたりの驚いた声が重なる。

「複製……!?」

「……聞いてないの?」

「ほ……本物だって聞いてますけど」

奈々の困惑した表情に、光啓は眉を寄せた。

「……残念だけど、贋作(がんさく)を掴まされたみたいだね」

光啓の言葉は容赦がない。

「となると、どこで買ったのかが問題だなあ。うちの取引先で引っかかる人が出ないよう注意喚起しておきたいから、できればその人に買った経緯を教えてもらいたいんだけど……」

光啓の関心がすでに別の方向へ動いている中で、涼佑は戸惑いを隠せない様子でソファーから立ち上がった。

「なあ、どうして本物じゃ無いってわかったんだ?」

「どうしてって……んー、まず美術品に保険をかけるのを他人任せにしちゃうような人が、そんな希少価値の高い作品をホイホイ手に入れられると思えないから、怪しいと思ったんだよね」

さんざんな評価に奈々がちょっと複雑な顔をしたのに気付かず、奈々が光啓はトントンと額縁を指で叩く。

「さっきの説明だと……18世紀の作家なんだよね? それにしては額縁の時代が古すぎてズレてるし、逆に油絵の具の劣化がなさ過ぎる。少しのひび割れも無いのは不自然だし……この贋作を作ったの、本職じゃないのかな? あとは……ちょっと失礼……ああ、やっぱり」

目を丸くするふたりをよそに、光啓は絵を裏返して額縁の裏を外すとひとり納得して頷いた。

「わりと最近作ったやつだね、これ」

「最近!?」

もうほとんど悲鳴のようになったふたりの声に、光啓は淡々と説明を続ける。

「キャンバス地が真新しいでしょ。最近になって人気が出て、手に入りにくくなったのに目をつけた誰かが、儲かると思って作ったんじゃないかな……ん?」

他に何かおかしなところは無いだろうかと、隅々まで眺めていた、その時だ。

絵画の角度を変えた瞬間、その違和感が光啓の目に留まった。

(今、何か見えたような……)

疑問に思ってよく目をこらすと、絵の具の盛り上がった箇所が光を受けて何かの形を浮かび上がらせたのだとわかる。そこに意図的なものを感じて、あらゆる角度へと絵を傾けていくと、それはある規則性をもって光啓の前にその疑問を提示した。

「アルファベット……? h……o……――」

光啓はその文字を紙に書き出していく。

「howdo,youtrust……妙なところで区切られているけど……How do you trustかな?」

『どうやって信用する?』

それはまるで光啓自身にそう問いかけてくるようで、光啓はこのメッセージを仕込んだ者に奇妙な興味を抱いたのだった。

1

■第一話

その駄菓子屋には、ツケというシステムがあった。

記憶力に自信がなくなっていた店主の老婆は、どの子が何をツケで買ったかを台帳に書き留めていた。

ある日、悪い子供がこっそりと老婆の台帳を書き換えてしまい、駄菓子屋は大混乱に陥った。

そこで駄菓子屋の平和を願う子供たちは二度と同じことが起こらぬよう、ツケの情報を老婆ひとりではなく子供たち全員で管理することにした。

全員が台帳持ち、『同じ情報』が『同時に複数』存在するようにしたのだ。

更に、情報を更新する時は台帳の持ち主の半数以上が確認をしてから、というルールも決めた。

これで悪い子供がまた台帳の書き換えを企んだところで、正しい情報が失われることはなくなった。

「――とまあ、ビットコインとかで使われてるブロックチェーンの大雑把な考え方としてはこんな感じかな。台帳の新しいページ作りをしてくれた子にはお菓子をあげるとか、これを実現するために必要な諸々の仕組みはあるけど……。ともかく、直接のハッキングによるリスクがないってメリットがあるんだ」

そう告げた芥川 光啓(あくたがわ みつひろ)の前で、志賀 奈々(しが なな)は、うん、と真剣な表情で頷き。

「子どもたちにツケを許してくれる優しいお婆ちゃんのお店が守られて本当に良かった……!」

「そうだね……例え話の中のお店だけど」

「あ、でも説明のほうも、“たぶん”理解できました!」

「良かったよ。それで……僕が気になってるのは、『Satoshi Nakamoto』は何故この仕組みを作り、自分が何者かを伏せたまま世に放ったのかってこと……」

光啓は自身のスマホの画面に目を落とし、そこに映し出された文字の向こう側にいる人物に語りかけるように続けた。

「そこに、何か大きなヒントがある気がするんだ……」

開かれたメッセージアプリには『未来に光を』という文字だけが淡い光の中にあった。

一ヶ月前――

落ち着いた色合いのカーテンとラグ、木目の美しいテーブル、柔らかさにこだわったソファ。

快適な休日を過ごすためにと勤め人になってからこだわりをもって整えられたリビング。今は事情があって素材にこだわる余裕はなくなってしまってはいるが、ここでゆっくりと紅茶とお気に入りのクラシックを嗜むのが、激務の日々を送る光啓のささやかな楽しみだった。

……のだが。

「……何?」

唐突に電話をかけてきた相手の男に対し、光啓は不機嫌の隠しきれていない声で言った。

『なあ、急で悪いんだけど、ちょっと頼みがあってさ。今……』

「僕、休みなんだけど」

男は何かを説明しようとしていたが、光啓は話を聞く前に慌てて口を挟んだ。それも仕方ないだろう。同僚の泉 涼佑(いずみ りょうすけ)が持ってくる「頼みごと」は毎度ろくなことがないからだ。

「せめて、明日出勤してからに……」

『理由は説明できねーけど、めっちゃくちゃ緊急なんだよ! ってわけで今からそっち行くから、よろしく!』

「ちょ、ちょっと待っ……あ」

なんとか断ろうとする光啓を無視して、涼佑は一方的にまくしたてて通話を切ってしまった。

「相変わらず人の話を聞かないんだから……」

困った相手だが、それがわかっていて電話に出ないという選択をしなかった自分のせいでもある。のんびりと音楽鑑賞をするのを諦めて、涼佑と、恐らく彼が「頼みごと」と共に連れてくるのだろう誰かのためにカップを用意するのだった。

「……それで」

光啓は向かいのソファに腰掛けたふたりの客人を前に溜息を吐き出した。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「ごめんなさい! まさかこんなことになるなんて思ってなくて……」

奈々が申し訳なさそうに言うのに、光啓は「君が悪いんじゃないよ」と諦めの深い笑みを浮かべた。

光啓が予想したとおり、涼佑はひとりの女性を伴って現れた。予想外だったのは、それが顔見知りだったことだ。

「志賀さん?」

「なんだお前、知り合い?」

ふたりの反応に涼佑は一瞬驚いたようで、興味津々といった様子で光啓と奈々を交互に見たが、その当事者ふたりのほうは、なんと説明したものかという顔でお互いの顔を見合わせた。

友人という間柄ではないが、ただの知り合いという浅い関係ではない。それどころか光啓の家族にとって小さくない縁があるのだが、同僚のひとりでしかない涼佑に家庭の事情まで伝える気は光啓にはないのだ。

「ええっと……まあ、そんなところです」

奈々のほうもそんな光啓の考えを察したらしくどう説明しようかと困ってるようだったが、当の涼佑のほうは関係についてはまったく興味はないらしく「だったらちょうどいいや」と単純に笑った。

「おれの取引先のスポーツ用品メーカーのおっさんが、保険のことで困ってる社員がいるから話だけでも聞いてやってほしいってさー」

「……それでなんで家につれてきたのさ」

「やー、話を聞くなら本人とするのが一番じゃん?」

もっともらしいことを言っているが、絶対自分で聞くのがめんどかっただけだろ、と光啓はじとりと涼佑を見たが、当の本人はまったく悪びれた風もない上「暇つぶしにもちょうどいいじゃん」などと言う始末だ。

「お前、いっつも休みの日は家でぼーっと暇してるだけじゃん」

「……別に、ぼーっとしてるわけでも、暇してるわけでもないよ」

「暇じゃないって、もしかしてあれか? お前も例のコード探しか」

『コード探し』とは、一年前にネットを騒がせた『宝探し』だ。

曰く、様々な場所に隠された秘密の言葉を集めた者は巨額の富を得ることができるという。

その額、約3兆2000億円。オリンピックが開催できる規模だ。

主催者は『Satoshi Nakamoto』……世界で最初の仮想通貨ビットコインの創始者にして、正体不明の天才だ。

突如としてネット上に現れ、仮想通貨技術を発表した彼(あるいは彼女)は、2011年4月以降、ネット上から姿を消した。

保有している莫大な価値を持つビットコインも手つかずのまま、10年以上が過ぎた1年前……Satoshi NakamotoはSNS上に現れた。

そして、実際にSatoshi Nakamotoが保有していたビットコインを“動かし”、本物であることを証明してみせた後、「全てのコードを集めた者に、私が保有しているビットコイン全てを譲渡する」と残し、再びその消息を断ってしまった。

「あれから一年も経ってるんだよ。あんな雲を掴むような話、本気にしてる人なんてもういなくなったんじゃないの?」

「だから狙い目なんじゃねえか。競争は少ない方がいいだろ。それにお前、変な知識めっちゃあるし、謎解きとか好きじゃんか」

「……その話は置いといて」

このままだと協力させられる流れになりそうだったので、変に逸れてしまった話題を戻すように、光啓は視線を奈々の抱える荷物に向けた。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「だってそうでも言わないとお前、引き受けてくれないだろ?」

「当たり前でしょ、休みなんだから」

このお調子者に何度振り回されたことか。光啓はあからさまな溜息を吐き出した。

見た目だけはお人好しそうなイケメンだから頼みやすいのか、この男がこうして取引先からのお願いごとやら厄介ごとを持ちかけられては気安く受けて、光啓に丸投げしてくるのはいつものことだ。それがごくごく僅かではあるもののちゃんと仕事に繋がることがあるので、まったく無視することもできないのが厄介なところなのだ。

(けど……今回のこれは明らかにハズレだよなあ)

涼佑もそれがわかっているから理由を話さなかったのだろう。貴重な休日を潰されたイライラがまたひとつ深まって、光啓はちくりと刺すように涼佑を睨んだ。

「なんでこう、安請け合いしちゃうかな」

「困ったときはお互い様だろ?」

「それを解決してるの僕だけどね」

「あの! ね!」

どんどん光啓の空気が剣呑になっていく気配を感じてか、奈々がやや強引にふたりの間に割って入った。

「とりあえず、話、聞いてもらって良いかな」

「あ……うん、そうだね」

確かにこのままふたりで言い合いをしていたところで休日が消えていくだけなので、仕方なく奈々の提案に頷いたものの、彼女が抱えている包みの形と大きさから、光啓は何となくこの先の展開がわかっていた。

奈々がその包みをテーブルの上で開いていく。

「これなんですけど……」

そうして広げられたのは、光啓の予想していた通り一枚の絵画だった。なんとも言えないような色使いをした油絵らしい作品と成金趣味な額縁を前にげんなりしている光啓の様子には気付かず、奈々は誰かから渡されたらしいメモを取り出して説明する。

「えーと……これ、今まではぱっとしてこなかったけどインフルエンサーがSNSで紹介してから話題になってる18世紀の画家の作品なんだそうです。元々数が少なかったせいもあって、有名な画廊でも作品が手に入らないらしくて、希少価値が……」

「……つまり、この絵に保険を掛けたいって話だよね?」

持ち主の自慢げな顔が見えそうな長ったらしいメモを律儀に読み上げる奈々に、光啓は思わず遮った。

「でも、どうして志賀さんが?」

「持ち主の人がね、盗まれたりしたらどうしようって困ってたから、話を聞いてる内に頼まれちゃって……」

絵は「鑑定が必要かもしれないから」と半ば強引に渡されたらしい。こんな個人的なことでわざわざ光啓に連絡したら迷惑だろうと悩んでいたら、それが社長の目に留まって涼佑の耳に入ってここまで連れて来られた、というのが顛末らしい。本人は遠慮したのに光啓の元にやって来たというのだから、苦笑するしかない。

「美術品なら動産総合保険になるかな……たぶん掛け捨てになると思うけど大丈夫?」

「……やっぱり高いですか?」

奈々の不安げな声に、やはり心配ごとはそこだよな、と思いながら光啓は「ごめん」と素直に頭を下げた。

「こういうのは代理店の仕事で、俺みたいな本社営業じゃ直接扱ってはないからね。僕じゃちょっとそこまではわからないよ」

「お前、骨董品とか好きじゃ無かったっけ。鑑定とかできねーの?」

「専門外。保険にかかる金額は、絵画の値段や価値とイコールじゃないし」

「そっかあ……」

がっかりした様子の奈々に、申し訳ないような気持ちになったが、そもそ涼佑が最初からきちんと話を聞いていれば、無駄足を踏ませることはなかったのだ。内心で溜息をつきながら光啓は手帳を開きながら続ける。

「まあ、何人か専門を知ってるから、良さそうな代理店を紹介するよ」

「ありがとうございます!」

「さっすが芥川、頼りになるわー」

気楽に喜ぶ同僚の調子の良さに本日何度目かわからない溜息をつきながら、光啓はもうほとんど冷めかけの紅茶を口にし、ふと口を開いた。

「――それにしても、複製品にわざわざ保険を掛けるなんて、よっぽどその絵が気に入ったんだね、その人」

「「え?」」

光啓の声に、ふたりの驚いた声が重なる。

「複製……!?」

「……聞いてないの?」

「ほ……本物だって聞いてますけど」

奈々の困惑した表情に、光啓は眉を寄せた。

「……残念だけど、贋作(がんさく)を掴まされたみたいだね」

光啓の言葉は容赦がない。

「となると、どこで買ったのかが問題だなあ。うちの取引先で引っかかる人が出ないよう注意喚起しておきたいから、できればその人に買った経緯を教えてもらいたいんだけど……」

光啓の関心がすでに別の方向へ動いている中で、涼佑は戸惑いを隠せない様子でソファーから立ち上がった。

「なあ、どうして本物じゃ無いってわかったんだ?」

「どうしてって……んー、まず美術品に保険をかけるのを他人任せにしちゃうような人が、そんな希少価値の高い作品をホイホイ手に入れられると思えないから、怪しいと思ったんだよね」

さんざんな評価に奈々がちょっと複雑な顔をしたのに気付かず、奈々が光啓はトントンと額縁を指で叩く。

「さっきの説明だと……18世紀の作家なんだよね? それにしては額縁の時代が古すぎてズレてるし、逆に油絵の具の劣化がなさ過ぎる。少しのひび割れも無いのは不自然だし……この贋作を作ったの、本職じゃないのかな? あとは……ちょっと失礼……ああ、やっぱり」

目を丸くするふたりをよそに、光啓は絵を裏返して額縁の裏を外すとひとり納得して頷いた。

「わりと最近作ったやつだね、これ」

「最近!?」

もうほとんど悲鳴のようになったふたりの声に、光啓は淡々と説明を続ける。

「キャンバス地が真新しいでしょ。最近になって人気が出て、手に入りにくくなったのに目をつけた誰かが、儲かると思って作ったんじゃないかな……ん?」

他に何かおかしなところは無いだろうかと、隅々まで眺めていた、その時だ。

絵画の角度を変えた瞬間、その違和感が光啓の目に留まった。

(今、何か見えたような……)

疑問に思ってよく目をこらすと、絵の具の盛り上がった箇所が光を受けて何かの形を浮かび上がらせたのだとわかる。そこに意図的なものを感じて、あらゆる角度へと絵を傾けていくと、それはある規則性をもって光啓の前にその疑問を提示した。

「アルファベット……? h……o……――」

光啓はその文字を紙に書き出していく。

「howdo,youtrust……妙なところで区切られているけど……How do you trustかな?」

『どうやって信用する?』

それはまるで光啓自身にそう問いかけてくるようで、光啓はこのメッセージを仕込んだ者に奇妙な興味を抱いたのだった。

  • #101-#110
  • #111-#120
  • #121-#130
  • #131-#140
  • #141-#150
  • #151-#160
  • #161-#170
  • #171-#180
  • #181-#190
  • #191-#200

1

■第一話

その駄菓子屋には、ツケというシステムがあった。

記憶力に自信がなくなっていた店主の老婆は、どの子が何をツケで買ったかを台帳に書き留めていた。

ある日、悪い子供がこっそりと老婆の台帳を書き換えてしまい、駄菓子屋は大混乱に陥った。

そこで駄菓子屋の平和を願う子供たちは二度と同じことが起こらぬよう、ツケの情報を老婆ひとりではなく子供たち全員で管理することにした。

全員が台帳持ち、『同じ情報』が『同時に複数』存在するようにしたのだ。

更に、情報を更新する時は台帳の持ち主の半数以上が確認をしてから、というルールも決めた。

これで悪い子供がまた台帳の書き換えを企んだところで、正しい情報が失われることはなくなった。

「――とまあ、ビットコインとかで使われてるブロックチェーンの大雑把な考え方としてはこんな感じかな。台帳の新しいページ作りをしてくれた子にはお菓子をあげるとか、これを実現するために必要な諸々の仕組みはあるけど……。ともかく、直接のハッキングによるリスクがないってメリットがあるんだ」

そう告げた芥川 光啓(あくたがわ みつひろ)の前で、志賀 奈々(しが なな)は、うん、と真剣な表情で頷き。

「子どもたちにツケを許してくれる優しいお婆ちゃんのお店が守られて本当に良かった……!」

「そうだね……例え話の中のお店だけど」

「あ、でも説明のほうも、“たぶん”理解できました!」

「良かったよ。それで……僕が気になってるのは、『Satoshi Nakamoto』は何故この仕組みを作り、自分が何者かを伏せたまま世に放ったのかってこと……」

光啓は自身のスマホの画面に目を落とし、そこに映し出された文字の向こう側にいる人物に語りかけるように続けた。

「そこに、何か大きなヒントがある気がするんだ……」

開かれたメッセージアプリには『未来に光を』という文字だけが淡い光の中にあった。

一ヶ月前――

落ち着いた色合いのカーテンとラグ、木目の美しいテーブル、柔らかさにこだわったソファ。

快適な休日を過ごすためにと勤め人になってからこだわりをもって整えられたリビング。今は事情があって素材にこだわる余裕はなくなってしまってはいるが、ここでゆっくりと紅茶とお気に入りのクラシックを嗜むのが、激務の日々を送る光啓のささやかな楽しみだった。

……のだが。

「……何?」

唐突に電話をかけてきた相手の男に対し、光啓は不機嫌の隠しきれていない声で言った。

『なあ、急で悪いんだけど、ちょっと頼みがあってさ。今……』

「僕、休みなんだけど」

男は何かを説明しようとしていたが、光啓は話を聞く前に慌てて口を挟んだ。それも仕方ないだろう。同僚の泉 涼佑(いずみ りょうすけ)が持ってくる「頼みごと」は毎度ろくなことがないからだ。

「せめて、明日出勤してからに……」

『理由は説明できねーけど、めっちゃくちゃ緊急なんだよ! ってわけで今からそっち行くから、よろしく!』

「ちょ、ちょっと待っ……あ」

なんとか断ろうとする光啓を無視して、涼佑は一方的にまくしたてて通話を切ってしまった。

「相変わらず人の話を聞かないんだから……」

困った相手だが、それがわかっていて電話に出ないという選択をしなかった自分のせいでもある。のんびりと音楽鑑賞をするのを諦めて、涼佑と、恐らく彼が「頼みごと」と共に連れてくるのだろう誰かのためにカップを用意するのだった。

「……それで」

光啓は向かいのソファに腰掛けたふたりの客人を前に溜息を吐き出した。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「ごめんなさい! まさかこんなことになるなんて思ってなくて……」

奈々が申し訳なさそうに言うのに、光啓は「君が悪いんじゃないよ」と諦めの深い笑みを浮かべた。

光啓が予想したとおり、涼佑はひとりの女性を伴って現れた。予想外だったのは、それが顔見知りだったことだ。

「志賀さん?」

「なんだお前、知り合い?」

ふたりの反応に涼佑は一瞬驚いたようで、興味津々といった様子で光啓と奈々を交互に見たが、その当事者ふたりのほうは、なんと説明したものかという顔でお互いの顔を見合わせた。

友人という間柄ではないが、ただの知り合いという浅い関係ではない。それどころか光啓の家族にとって小さくない縁があるのだが、同僚のひとりでしかない涼佑に家庭の事情まで伝える気は光啓にはないのだ。

「ええっと……まあ、そんなところです」

奈々のほうもそんな光啓の考えを察したらしくどう説明しようかと困ってるようだったが、当の涼佑のほうは関係についてはまったく興味はないらしく「だったらちょうどいいや」と単純に笑った。

「おれの取引先のスポーツ用品メーカーのおっさんが、保険のことで困ってる社員がいるから話だけでも聞いてやってほしいってさー」

「……それでなんで家につれてきたのさ」

「やー、話を聞くなら本人とするのが一番じゃん?」

もっともらしいことを言っているが、絶対自分で聞くのがめんどかっただけだろ、と光啓はじとりと涼佑を見たが、当の本人はまったく悪びれた風もない上「暇つぶしにもちょうどいいじゃん」などと言う始末だ。

「お前、いっつも休みの日は家でぼーっと暇してるだけじゃん」

「……別に、ぼーっとしてるわけでも、暇してるわけでもないよ」

「暇じゃないって、もしかしてあれか? お前も例のコード探しか」

『コード探し』とは、一年前にネットを騒がせた『宝探し』だ。

曰く、様々な場所に隠された秘密の言葉を集めた者は巨額の富を得ることができるという。

その額、約3兆2000億円。オリンピックが開催できる規模だ。

主催者は『Satoshi Nakamoto』……世界で最初の仮想通貨ビットコインの創始者にして、正体不明の天才だ。

突如としてネット上に現れ、仮想通貨技術を発表した彼(あるいは彼女)は、2011年4月以降、ネット上から姿を消した。

保有している莫大な価値を持つビットコインも手つかずのまま、10年以上が過ぎた1年前……Satoshi NakamotoはSNS上に現れた。

そして、実際にSatoshi Nakamotoが保有していたビットコインを“動かし”、本物であることを証明してみせた後、「全てのコードを集めた者に、私が保有しているビットコイン全てを譲渡する」と残し、再びその消息を断ってしまった。

「あれから一年も経ってるんだよ。あんな雲を掴むような話、本気にしてる人なんてもういなくなったんじゃないの?」

「だから狙い目なんじゃねえか。競争は少ない方がいいだろ。それにお前、変な知識めっちゃあるし、謎解きとか好きじゃんか」

「……その話は置いといて」

このままだと協力させられる流れになりそうだったので、変に逸れてしまった話題を戻すように、光啓は視線を奈々の抱える荷物に向けた。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「だってそうでも言わないとお前、引き受けてくれないだろ?」

「当たり前でしょ、休みなんだから」

このお調子者に何度振り回されたことか。光啓はあからさまな溜息を吐き出した。

見た目だけはお人好しそうなイケメンだから頼みやすいのか、この男がこうして取引先からのお願いごとやら厄介ごとを持ちかけられては気安く受けて、光啓に丸投げしてくるのはいつものことだ。それがごくごく僅かではあるもののちゃんと仕事に繋がることがあるので、まったく無視することもできないのが厄介なところなのだ。

(けど……今回のこれは明らかにハズレだよなあ)

涼佑もそれがわかっているから理由を話さなかったのだろう。貴重な休日を潰されたイライラがまたひとつ深まって、光啓はちくりと刺すように涼佑を睨んだ。

「なんでこう、安請け合いしちゃうかな」

「困ったときはお互い様だろ?」

「それを解決してるの僕だけどね」

「あの! ね!」

どんどん光啓の空気が剣呑になっていく気配を感じてか、奈々がやや強引にふたりの間に割って入った。

「とりあえず、話、聞いてもらって良いかな」

「あ……うん、そうだね」

確かにこのままふたりで言い合いをしていたところで休日が消えていくだけなので、仕方なく奈々の提案に頷いたものの、彼女が抱えている包みの形と大きさから、光啓は何となくこの先の展開がわかっていた。

奈々がその包みをテーブルの上で開いていく。

「これなんですけど……」

そうして広げられたのは、光啓の予想していた通り一枚の絵画だった。なんとも言えないような色使いをした油絵らしい作品と成金趣味な額縁を前にげんなりしている光啓の様子には気付かず、奈々は誰かから渡されたらしいメモを取り出して説明する。

「えーと……これ、今まではぱっとしてこなかったけどインフルエンサーがSNSで紹介してから話題になってる18世紀の画家の作品なんだそうです。元々数が少なかったせいもあって、有名な画廊でも作品が手に入らないらしくて、希少価値が……」

「……つまり、この絵に保険を掛けたいって話だよね?」

持ち主の自慢げな顔が見えそうな長ったらしいメモを律儀に読み上げる奈々に、光啓は思わず遮った。

「でも、どうして志賀さんが?」

「持ち主の人がね、盗まれたりしたらどうしようって困ってたから、話を聞いてる内に頼まれちゃって……」

絵は「鑑定が必要かもしれないから」と半ば強引に渡されたらしい。こんな個人的なことでわざわざ光啓に連絡したら迷惑だろうと悩んでいたら、それが社長の目に留まって涼佑の耳に入ってここまで連れて来られた、というのが顛末らしい。本人は遠慮したのに光啓の元にやって来たというのだから、苦笑するしかない。

「美術品なら動産総合保険になるかな……たぶん掛け捨てになると思うけど大丈夫?」

「……やっぱり高いですか?」

奈々の不安げな声に、やはり心配ごとはそこだよな、と思いながら光啓は「ごめん」と素直に頭を下げた。

「こういうのは代理店の仕事で、俺みたいな本社営業じゃ直接扱ってはないからね。僕じゃちょっとそこまではわからないよ」

「お前、骨董品とか好きじゃ無かったっけ。鑑定とかできねーの?」

「専門外。保険にかかる金額は、絵画の値段や価値とイコールじゃないし」

「そっかあ……」

がっかりした様子の奈々に、申し訳ないような気持ちになったが、そもそ涼佑が最初からきちんと話を聞いていれば、無駄足を踏ませることはなかったのだ。内心で溜息をつきながら光啓は手帳を開きながら続ける。

「まあ、何人か専門を知ってるから、良さそうな代理店を紹介するよ」

「ありがとうございます!」

「さっすが芥川、頼りになるわー」

気楽に喜ぶ同僚の調子の良さに本日何度目かわからない溜息をつきながら、光啓はもうほとんど冷めかけの紅茶を口にし、ふと口を開いた。

「――それにしても、複製品にわざわざ保険を掛けるなんて、よっぽどその絵が気に入ったんだね、その人」

「「え?」」

光啓の声に、ふたりの驚いた声が重なる。

「複製……!?」

「……聞いてないの?」

「ほ……本物だって聞いてますけど」

奈々の困惑した表情に、光啓は眉を寄せた。

「……残念だけど、贋作(がんさく)を掴まされたみたいだね」

光啓の言葉は容赦がない。

「となると、どこで買ったのかが問題だなあ。うちの取引先で引っかかる人が出ないよう注意喚起しておきたいから、できればその人に買った経緯を教えてもらいたいんだけど……」

光啓の関心がすでに別の方向へ動いている中で、涼佑は戸惑いを隠せない様子でソファーから立ち上がった。

「なあ、どうして本物じゃ無いってわかったんだ?」

「どうしてって……んー、まず美術品に保険をかけるのを他人任せにしちゃうような人が、そんな希少価値の高い作品をホイホイ手に入れられると思えないから、怪しいと思ったんだよね」

さんざんな評価に奈々がちょっと複雑な顔をしたのに気付かず、奈々が光啓はトントンと額縁を指で叩く。

「さっきの説明だと……18世紀の作家なんだよね? それにしては額縁の時代が古すぎてズレてるし、逆に油絵の具の劣化がなさ過ぎる。少しのひび割れも無いのは不自然だし……この贋作を作ったの、本職じゃないのかな? あとは……ちょっと失礼……ああ、やっぱり」

目を丸くするふたりをよそに、光啓は絵を裏返して額縁の裏を外すとひとり納得して頷いた。

「わりと最近作ったやつだね、これ」

「最近!?」

もうほとんど悲鳴のようになったふたりの声に、光啓は淡々と説明を続ける。

「キャンバス地が真新しいでしょ。最近になって人気が出て、手に入りにくくなったのに目をつけた誰かが、儲かると思って作ったんじゃないかな……ん?」

他に何かおかしなところは無いだろうかと、隅々まで眺めていた、その時だ。

絵画の角度を変えた瞬間、その違和感が光啓の目に留まった。

(今、何か見えたような……)

疑問に思ってよく目をこらすと、絵の具の盛り上がった箇所が光を受けて何かの形を浮かび上がらせたのだとわかる。そこに意図的なものを感じて、あらゆる角度へと絵を傾けていくと、それはある規則性をもって光啓の前にその疑問を提示した。

「アルファベット……? h……o……――」

光啓はその文字を紙に書き出していく。

「howdo,youtrust……妙なところで区切られているけど……How do you trustかな?」

『どうやって信用する?』

それはまるで光啓自身にそう問いかけてくるようで、光啓はこのメッセージを仕込んだ者に奇妙な興味を抱いたのだった。

1

■第一話

その駄菓子屋には、ツケというシステムがあった。

記憶力に自信がなくなっていた店主の老婆は、どの子が何をツケで買ったかを台帳に書き留めていた。

ある日、悪い子供がこっそりと老婆の台帳を書き換えてしまい、駄菓子屋は大混乱に陥った。

そこで駄菓子屋の平和を願う子供たちは二度と同じことが起こらぬよう、ツケの情報を老婆ひとりではなく子供たち全員で管理することにした。

全員が台帳持ち、『同じ情報』が『同時に複数』存在するようにしたのだ。

更に、情報を更新する時は台帳の持ち主の半数以上が確認をしてから、というルールも決めた。

これで悪い子供がまた台帳の書き換えを企んだところで、正しい情報が失われることはなくなった。

「――とまあ、ビットコインとかで使われてるブロックチェーンの大雑把な考え方としてはこんな感じかな。台帳の新しいページ作りをしてくれた子にはお菓子をあげるとか、これを実現するために必要な諸々の仕組みはあるけど……。ともかく、直接のハッキングによるリスクがないってメリットがあるんだ」

そう告げた芥川 光啓(あくたがわ みつひろ)の前で、志賀 奈々(しが なな)は、うん、と真剣な表情で頷き。

「子どもたちにツケを許してくれる優しいお婆ちゃんのお店が守られて本当に良かった……!」

「そうだね……例え話の中のお店だけど」

「あ、でも説明のほうも、“たぶん”理解できました!」

「良かったよ。それで……僕が気になってるのは、『Satoshi Nakamoto』は何故この仕組みを作り、自分が何者かを伏せたまま世に放ったのかってこと……」

光啓は自身のスマホの画面に目を落とし、そこに映し出された文字の向こう側にいる人物に語りかけるように続けた。

「そこに、何か大きなヒントがある気がするんだ……」

開かれたメッセージアプリには『未来に光を』という文字だけが淡い光の中にあった。

一ヶ月前――

落ち着いた色合いのカーテンとラグ、木目の美しいテーブル、柔らかさにこだわったソファ。

快適な休日を過ごすためにと勤め人になってからこだわりをもって整えられたリビング。今は事情があって素材にこだわる余裕はなくなってしまってはいるが、ここでゆっくりと紅茶とお気に入りのクラシックを嗜むのが、激務の日々を送る光啓のささやかな楽しみだった。

……のだが。

「……何?」

唐突に電話をかけてきた相手の男に対し、光啓は不機嫌の隠しきれていない声で言った。

『なあ、急で悪いんだけど、ちょっと頼みがあってさ。今……』

「僕、休みなんだけど」

男は何かを説明しようとしていたが、光啓は話を聞く前に慌てて口を挟んだ。それも仕方ないだろう。同僚の泉 涼佑(いずみ りょうすけ)が持ってくる「頼みごと」は毎度ろくなことがないからだ。

「せめて、明日出勤してからに……」

『理由は説明できねーけど、めっちゃくちゃ緊急なんだよ! ってわけで今からそっち行くから、よろしく!』

「ちょ、ちょっと待っ……あ」

なんとか断ろうとする光啓を無視して、涼佑は一方的にまくしたてて通話を切ってしまった。

「相変わらず人の話を聞かないんだから……」

困った相手だが、それがわかっていて電話に出ないという選択をしなかった自分のせいでもある。のんびりと音楽鑑賞をするのを諦めて、涼佑と、恐らく彼が「頼みごと」と共に連れてくるのだろう誰かのためにカップを用意するのだった。

「……それで」

光啓は向かいのソファに腰掛けたふたりの客人を前に溜息を吐き出した。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「ごめんなさい! まさかこんなことになるなんて思ってなくて……」

奈々が申し訳なさそうに言うのに、光啓は「君が悪いんじゃないよ」と諦めの深い笑みを浮かべた。

光啓が予想したとおり、涼佑はひとりの女性を伴って現れた。予想外だったのは、それが顔見知りだったことだ。

「志賀さん?」

「なんだお前、知り合い?」

ふたりの反応に涼佑は一瞬驚いたようで、興味津々といった様子で光啓と奈々を交互に見たが、その当事者ふたりのほうは、なんと説明したものかという顔でお互いの顔を見合わせた。

友人という間柄ではないが、ただの知り合いという浅い関係ではない。それどころか光啓の家族にとって小さくない縁があるのだが、同僚のひとりでしかない涼佑に家庭の事情まで伝える気は光啓にはないのだ。

「ええっと……まあ、そんなところです」

奈々のほうもそんな光啓の考えを察したらしくどう説明しようかと困ってるようだったが、当の涼佑のほうは関係についてはまったく興味はないらしく「だったらちょうどいいや」と単純に笑った。

「おれの取引先のスポーツ用品メーカーのおっさんが、保険のことで困ってる社員がいるから話だけでも聞いてやってほしいってさー」

「……それでなんで家につれてきたのさ」

「やー、話を聞くなら本人とするのが一番じゃん?」

もっともらしいことを言っているが、絶対自分で聞くのがめんどかっただけだろ、と光啓はじとりと涼佑を見たが、当の本人はまったく悪びれた風もない上「暇つぶしにもちょうどいいじゃん」などと言う始末だ。

「お前、いっつも休みの日は家でぼーっと暇してるだけじゃん」

「……別に、ぼーっとしてるわけでも、暇してるわけでもないよ」

「暇じゃないって、もしかしてあれか? お前も例のコード探しか」

『コード探し』とは、一年前にネットを騒がせた『宝探し』だ。

曰く、様々な場所に隠された秘密の言葉を集めた者は巨額の富を得ることができるという。

その額、約3兆2000億円。オリンピックが開催できる規模だ。

主催者は『Satoshi Nakamoto』……世界で最初の仮想通貨ビットコインの創始者にして、正体不明の天才だ。

突如としてネット上に現れ、仮想通貨技術を発表した彼(あるいは彼女)は、2011年4月以降、ネット上から姿を消した。

保有している莫大な価値を持つビットコインも手つかずのまま、10年以上が過ぎた1年前……Satoshi NakamotoはSNS上に現れた。

そして、実際にSatoshi Nakamotoが保有していたビットコインを“動かし”、本物であることを証明してみせた後、「全てのコードを集めた者に、私が保有しているビットコイン全てを譲渡する」と残し、再びその消息を断ってしまった。

「あれから一年も経ってるんだよ。あんな雲を掴むような話、本気にしてる人なんてもういなくなったんじゃないの?」

「だから狙い目なんじゃねえか。競争は少ない方がいいだろ。それにお前、変な知識めっちゃあるし、謎解きとか好きじゃんか」

「……その話は置いといて」

このままだと協力させられる流れになりそうだったので、変に逸れてしまった話題を戻すように、光啓は視線を奈々の抱える荷物に向けた。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「だってそうでも言わないとお前、引き受けてくれないだろ?」

「当たり前でしょ、休みなんだから」

このお調子者に何度振り回されたことか。光啓はあからさまな溜息を吐き出した。

見た目だけはお人好しそうなイケメンだから頼みやすいのか、この男がこうして取引先からのお願いごとやら厄介ごとを持ちかけられては気安く受けて、光啓に丸投げしてくるのはいつものことだ。それがごくごく僅かではあるもののちゃんと仕事に繋がることがあるので、まったく無視することもできないのが厄介なところなのだ。

(けど……今回のこれは明らかにハズレだよなあ)

涼佑もそれがわかっているから理由を話さなかったのだろう。貴重な休日を潰されたイライラがまたひとつ深まって、光啓はちくりと刺すように涼佑を睨んだ。

「なんでこう、安請け合いしちゃうかな」

「困ったときはお互い様だろ?」

「それを解決してるの僕だけどね」

「あの! ね!」

どんどん光啓の空気が剣呑になっていく気配を感じてか、奈々がやや強引にふたりの間に割って入った。

「とりあえず、話、聞いてもらって良いかな」

「あ……うん、そうだね」

確かにこのままふたりで言い合いをしていたところで休日が消えていくだけなので、仕方なく奈々の提案に頷いたものの、彼女が抱えている包みの形と大きさから、光啓は何となくこの先の展開がわかっていた。

奈々がその包みをテーブルの上で開いていく。

「これなんですけど……」

そうして広げられたのは、光啓の予想していた通り一枚の絵画だった。なんとも言えないような色使いをした油絵らしい作品と成金趣味な額縁を前にげんなりしている光啓の様子には気付かず、奈々は誰かから渡されたらしいメモを取り出して説明する。

「えーと……これ、今まではぱっとしてこなかったけどインフルエンサーがSNSで紹介してから話題になってる18世紀の画家の作品なんだそうです。元々数が少なかったせいもあって、有名な画廊でも作品が手に入らないらしくて、希少価値が……」

「……つまり、この絵に保険を掛けたいって話だよね?」

持ち主の自慢げな顔が見えそうな長ったらしいメモを律儀に読み上げる奈々に、光啓は思わず遮った。

「でも、どうして志賀さんが?」

「持ち主の人がね、盗まれたりしたらどうしようって困ってたから、話を聞いてる内に頼まれちゃって……」

絵は「鑑定が必要かもしれないから」と半ば強引に渡されたらしい。こんな個人的なことでわざわざ光啓に連絡したら迷惑だろうと悩んでいたら、それが社長の目に留まって涼佑の耳に入ってここまで連れて来られた、というのが顛末らしい。本人は遠慮したのに光啓の元にやって来たというのだから、苦笑するしかない。

「美術品なら動産総合保険になるかな……たぶん掛け捨てになると思うけど大丈夫?」

「……やっぱり高いですか?」

奈々の不安げな声に、やはり心配ごとはそこだよな、と思いながら光啓は「ごめん」と素直に頭を下げた。

「こういうのは代理店の仕事で、俺みたいな本社営業じゃ直接扱ってはないからね。僕じゃちょっとそこまではわからないよ」

「お前、骨董品とか好きじゃ無かったっけ。鑑定とかできねーの?」

「専門外。保険にかかる金額は、絵画の値段や価値とイコールじゃないし」

「そっかあ……」

がっかりした様子の奈々に、申し訳ないような気持ちになったが、そもそ涼佑が最初からきちんと話を聞いていれば、無駄足を踏ませることはなかったのだ。内心で溜息をつきながら光啓は手帳を開きながら続ける。

「まあ、何人か専門を知ってるから、良さそうな代理店を紹介するよ」

「ありがとうございます!」

「さっすが芥川、頼りになるわー」

気楽に喜ぶ同僚の調子の良さに本日何度目かわからない溜息をつきながら、光啓はもうほとんど冷めかけの紅茶を口にし、ふと口を開いた。

「――それにしても、複製品にわざわざ保険を掛けるなんて、よっぽどその絵が気に入ったんだね、その人」

「「え?」」

光啓の声に、ふたりの驚いた声が重なる。

「複製……!?」

「……聞いてないの?」

「ほ……本物だって聞いてますけど」

奈々の困惑した表情に、光啓は眉を寄せた。

「……残念だけど、贋作(がんさく)を掴まされたみたいだね」

光啓の言葉は容赦がない。

「となると、どこで買ったのかが問題だなあ。うちの取引先で引っかかる人が出ないよう注意喚起しておきたいから、できればその人に買った経緯を教えてもらいたいんだけど……」

光啓の関心がすでに別の方向へ動いている中で、涼佑は戸惑いを隠せない様子でソファーから立ち上がった。

「なあ、どうして本物じゃ無いってわかったんだ?」

「どうしてって……んー、まず美術品に保険をかけるのを他人任せにしちゃうような人が、そんな希少価値の高い作品をホイホイ手に入れられると思えないから、怪しいと思ったんだよね」

さんざんな評価に奈々がちょっと複雑な顔をしたのに気付かず、奈々が光啓はトントンと額縁を指で叩く。

「さっきの説明だと……18世紀の作家なんだよね? それにしては額縁の時代が古すぎてズレてるし、逆に油絵の具の劣化がなさ過ぎる。少しのひび割れも無いのは不自然だし……この贋作を作ったの、本職じゃないのかな? あとは……ちょっと失礼……ああ、やっぱり」

目を丸くするふたりをよそに、光啓は絵を裏返して額縁の裏を外すとひとり納得して頷いた。

「わりと最近作ったやつだね、これ」

「最近!?」

もうほとんど悲鳴のようになったふたりの声に、光啓は淡々と説明を続ける。

「キャンバス地が真新しいでしょ。最近になって人気が出て、手に入りにくくなったのに目をつけた誰かが、儲かると思って作ったんじゃないかな……ん?」

他に何かおかしなところは無いだろうかと、隅々まで眺めていた、その時だ。

絵画の角度を変えた瞬間、その違和感が光啓の目に留まった。

(今、何か見えたような……)

疑問に思ってよく目をこらすと、絵の具の盛り上がった箇所が光を受けて何かの形を浮かび上がらせたのだとわかる。そこに意図的なものを感じて、あらゆる角度へと絵を傾けていくと、それはある規則性をもって光啓の前にその疑問を提示した。

「アルファベット……? h……o……――」

光啓はその文字を紙に書き出していく。

「howdo,youtrust……妙なところで区切られているけど……How do you trustかな?」

『どうやって信用する?』

それはまるで光啓自身にそう問いかけてくるようで、光啓はこのメッセージを仕込んだ者に奇妙な興味を抱いたのだった。

1

■第一話

その駄菓子屋には、ツケというシステムがあった。

記憶力に自信がなくなっていた店主の老婆は、どの子が何をツケで買ったかを台帳に書き留めていた。

ある日、悪い子供がこっそりと老婆の台帳を書き換えてしまい、駄菓子屋は大混乱に陥った。

そこで駄菓子屋の平和を願う子供たちは二度と同じことが起こらぬよう、ツケの情報を老婆ひとりではなく子供たち全員で管理することにした。

全員が台帳持ち、『同じ情報』が『同時に複数』存在するようにしたのだ。

更に、情報を更新する時は台帳の持ち主の半数以上が確認をしてから、というルールも決めた。

これで悪い子供がまた台帳の書き換えを企んだところで、正しい情報が失われることはなくなった。

「――とまあ、ビットコインとかで使われてるブロックチェーンの大雑把な考え方としてはこんな感じかな。台帳の新しいページ作りをしてくれた子にはお菓子をあげるとか、これを実現するために必要な諸々の仕組みはあるけど……。ともかく、直接のハッキングによるリスクがないってメリットがあるんだ」

そう告げた芥川 光啓(あくたがわ みつひろ)の前で、志賀 奈々(しが なな)は、うん、と真剣な表情で頷き。

「子どもたちにツケを許してくれる優しいお婆ちゃんのお店が守られて本当に良かった……!」

「そうだね……例え話の中のお店だけど」

「あ、でも説明のほうも、“たぶん”理解できました!」

「良かったよ。それで……僕が気になってるのは、『Satoshi Nakamoto』は何故この仕組みを作り、自分が何者かを伏せたまま世に放ったのかってこと……」

光啓は自身のスマホの画面に目を落とし、そこに映し出された文字の向こう側にいる人物に語りかけるように続けた。

「そこに、何か大きなヒントがある気がするんだ……」

開かれたメッセージアプリには『未来に光を』という文字だけが淡い光の中にあった。

一ヶ月前――

落ち着いた色合いのカーテンとラグ、木目の美しいテーブル、柔らかさにこだわったソファ。

快適な休日を過ごすためにと勤め人になってからこだわりをもって整えられたリビング。今は事情があって素材にこだわる余裕はなくなってしまってはいるが、ここでゆっくりと紅茶とお気に入りのクラシックを嗜むのが、激務の日々を送る光啓のささやかな楽しみだった。

……のだが。

「……何?」

唐突に電話をかけてきた相手の男に対し、光啓は不機嫌の隠しきれていない声で言った。

『なあ、急で悪いんだけど、ちょっと頼みがあってさ。今……』

「僕、休みなんだけど」

男は何かを説明しようとしていたが、光啓は話を聞く前に慌てて口を挟んだ。それも仕方ないだろう。同僚の泉 涼佑(いずみ りょうすけ)が持ってくる「頼みごと」は毎度ろくなことがないからだ。

「せめて、明日出勤してからに……」

『理由は説明できねーけど、めっちゃくちゃ緊急なんだよ! ってわけで今からそっち行くから、よろしく!』

「ちょ、ちょっと待っ……あ」

なんとか断ろうとする光啓を無視して、涼佑は一方的にまくしたてて通話を切ってしまった。

「相変わらず人の話を聞かないんだから……」

困った相手だが、それがわかっていて電話に出ないという選択をしなかった自分のせいでもある。のんびりと音楽鑑賞をするのを諦めて、涼佑と、恐らく彼が「頼みごと」と共に連れてくるのだろう誰かのためにカップを用意するのだった。

「……それで」

光啓は向かいのソファに腰掛けたふたりの客人を前に溜息を吐き出した。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「ごめんなさい! まさかこんなことになるなんて思ってなくて……」

奈々が申し訳なさそうに言うのに、光啓は「君が悪いんじゃないよ」と諦めの深い笑みを浮かべた。

光啓が予想したとおり、涼佑はひとりの女性を伴って現れた。予想外だったのは、それが顔見知りだったことだ。

「志賀さん?」

「なんだお前、知り合い?」

ふたりの反応に涼佑は一瞬驚いたようで、興味津々といった様子で光啓と奈々を交互に見たが、その当事者ふたりのほうは、なんと説明したものかという顔でお互いの顔を見合わせた。

友人という間柄ではないが、ただの知り合いという浅い関係ではない。それどころか光啓の家族にとって小さくない縁があるのだが、同僚のひとりでしかない涼佑に家庭の事情まで伝える気は光啓にはないのだ。

「ええっと……まあ、そんなところです」

奈々のほうもそんな光啓の考えを察したらしくどう説明しようかと困ってるようだったが、当の涼佑のほうは関係についてはまったく興味はないらしく「だったらちょうどいいや」と単純に笑った。

「おれの取引先のスポーツ用品メーカーのおっさんが、保険のことで困ってる社員がいるから話だけでも聞いてやってほしいってさー」

「……それでなんで家につれてきたのさ」

「やー、話を聞くなら本人とするのが一番じゃん?」

もっともらしいことを言っているが、絶対自分で聞くのがめんどかっただけだろ、と光啓はじとりと涼佑を見たが、当の本人はまったく悪びれた風もない上「暇つぶしにもちょうどいいじゃん」などと言う始末だ。

「お前、いっつも休みの日は家でぼーっと暇してるだけじゃん」

「……別に、ぼーっとしてるわけでも、暇してるわけでもないよ」

「暇じゃないって、もしかしてあれか? お前も例のコード探しか」

『コード探し』とは、一年前にネットを騒がせた『宝探し』だ。

曰く、様々な場所に隠された秘密の言葉を集めた者は巨額の富を得ることができるという。

その額、約3兆2000億円。オリンピックが開催できる規模だ。

主催者は『Satoshi Nakamoto』……世界で最初の仮想通貨ビットコインの創始者にして、正体不明の天才だ。

突如としてネット上に現れ、仮想通貨技術を発表した彼(あるいは彼女)は、2011年4月以降、ネット上から姿を消した。

保有している莫大な価値を持つビットコインも手つかずのまま、10年以上が過ぎた1年前……Satoshi NakamotoはSNS上に現れた。

そして、実際にSatoshi Nakamotoが保有していたビットコインを“動かし”、本物であることを証明してみせた後、「全てのコードを集めた者に、私が保有しているビットコイン全てを譲渡する」と残し、再びその消息を断ってしまった。

「あれから一年も経ってるんだよ。あんな雲を掴むような話、本気にしてる人なんてもういなくなったんじゃないの?」

「だから狙い目なんじゃねえか。競争は少ない方がいいだろ。それにお前、変な知識めっちゃあるし、謎解きとか好きじゃんか」

「……その話は置いといて」

このままだと協力させられる流れになりそうだったので、変に逸れてしまった話題を戻すように、光啓は視線を奈々の抱える荷物に向けた。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「だってそうでも言わないとお前、引き受けてくれないだろ?」

「当たり前でしょ、休みなんだから」

このお調子者に何度振り回されたことか。光啓はあからさまな溜息を吐き出した。

見た目だけはお人好しそうなイケメンだから頼みやすいのか、この男がこうして取引先からのお願いごとやら厄介ごとを持ちかけられては気安く受けて、光啓に丸投げしてくるのはいつものことだ。それがごくごく僅かではあるもののちゃんと仕事に繋がることがあるので、まったく無視することもできないのが厄介なところなのだ。

(けど……今回のこれは明らかにハズレだよなあ)

涼佑もそれがわかっているから理由を話さなかったのだろう。貴重な休日を潰されたイライラがまたひとつ深まって、光啓はちくりと刺すように涼佑を睨んだ。

「なんでこう、安請け合いしちゃうかな」

「困ったときはお互い様だろ?」

「それを解決してるの僕だけどね」

「あの! ね!」

どんどん光啓の空気が剣呑になっていく気配を感じてか、奈々がやや強引にふたりの間に割って入った。

「とりあえず、話、聞いてもらって良いかな」

「あ……うん、そうだね」

確かにこのままふたりで言い合いをしていたところで休日が消えていくだけなので、仕方なく奈々の提案に頷いたものの、彼女が抱えている包みの形と大きさから、光啓は何となくこの先の展開がわかっていた。

奈々がその包みをテーブルの上で開いていく。

「これなんですけど……」

そうして広げられたのは、光啓の予想していた通り一枚の絵画だった。なんとも言えないような色使いをした油絵らしい作品と成金趣味な額縁を前にげんなりしている光啓の様子には気付かず、奈々は誰かから渡されたらしいメモを取り出して説明する。

「えーと……これ、今まではぱっとしてこなかったけどインフルエンサーがSNSで紹介してから話題になってる18世紀の画家の作品なんだそうです。元々数が少なかったせいもあって、有名な画廊でも作品が手に入らないらしくて、希少価値が……」

「……つまり、この絵に保険を掛けたいって話だよね?」

持ち主の自慢げな顔が見えそうな長ったらしいメモを律儀に読み上げる奈々に、光啓は思わず遮った。

「でも、どうして志賀さんが?」

「持ち主の人がね、盗まれたりしたらどうしようって困ってたから、話を聞いてる内に頼まれちゃって……」

絵は「鑑定が必要かもしれないから」と半ば強引に渡されたらしい。こんな個人的なことでわざわざ光啓に連絡したら迷惑だろうと悩んでいたら、それが社長の目に留まって涼佑の耳に入ってここまで連れて来られた、というのが顛末らしい。本人は遠慮したのに光啓の元にやって来たというのだから、苦笑するしかない。

「美術品なら動産総合保険になるかな……たぶん掛け捨てになると思うけど大丈夫?」

「……やっぱり高いですか?」

奈々の不安げな声に、やはり心配ごとはそこだよな、と思いながら光啓は「ごめん」と素直に頭を下げた。

「こういうのは代理店の仕事で、俺みたいな本社営業じゃ直接扱ってはないからね。僕じゃちょっとそこまではわからないよ」

「お前、骨董品とか好きじゃ無かったっけ。鑑定とかできねーの?」

「専門外。保険にかかる金額は、絵画の値段や価値とイコールじゃないし」

「そっかあ……」

がっかりした様子の奈々に、申し訳ないような気持ちになったが、そもそ涼佑が最初からきちんと話を聞いていれば、無駄足を踏ませることはなかったのだ。内心で溜息をつきながら光啓は手帳を開きながら続ける。

「まあ、何人か専門を知ってるから、良さそうな代理店を紹介するよ」

「ありがとうございます!」

「さっすが芥川、頼りになるわー」

気楽に喜ぶ同僚の調子の良さに本日何度目かわからない溜息をつきながら、光啓はもうほとんど冷めかけの紅茶を口にし、ふと口を開いた。

「――それにしても、複製品にわざわざ保険を掛けるなんて、よっぽどその絵が気に入ったんだね、その人」

「「え?」」

光啓の声に、ふたりの驚いた声が重なる。

「複製……!?」

「……聞いてないの?」

「ほ……本物だって聞いてますけど」

奈々の困惑した表情に、光啓は眉を寄せた。

「……残念だけど、贋作(がんさく)を掴まされたみたいだね」

光啓の言葉は容赦がない。

「となると、どこで買ったのかが問題だなあ。うちの取引先で引っかかる人が出ないよう注意喚起しておきたいから、できればその人に買った経緯を教えてもらいたいんだけど……」

光啓の関心がすでに別の方向へ動いている中で、涼佑は戸惑いを隠せない様子でソファーから立ち上がった。

「なあ、どうして本物じゃ無いってわかったんだ?」

「どうしてって……んー、まず美術品に保険をかけるのを他人任せにしちゃうような人が、そんな希少価値の高い作品をホイホイ手に入れられると思えないから、怪しいと思ったんだよね」

さんざんな評価に奈々がちょっと複雑な顔をしたのに気付かず、奈々が光啓はトントンと額縁を指で叩く。

「さっきの説明だと……18世紀の作家なんだよね? それにしては額縁の時代が古すぎてズレてるし、逆に油絵の具の劣化がなさ過ぎる。少しのひび割れも無いのは不自然だし……この贋作を作ったの、本職じゃないのかな? あとは……ちょっと失礼……ああ、やっぱり」

目を丸くするふたりをよそに、光啓は絵を裏返して額縁の裏を外すとひとり納得して頷いた。

「わりと最近作ったやつだね、これ」

「最近!?」

もうほとんど悲鳴のようになったふたりの声に、光啓は淡々と説明を続ける。

「キャンバス地が真新しいでしょ。最近になって人気が出て、手に入りにくくなったのに目をつけた誰かが、儲かると思って作ったんじゃないかな……ん?」

他に何かおかしなところは無いだろうかと、隅々まで眺めていた、その時だ。

絵画の角度を変えた瞬間、その違和感が光啓の目に留まった。

(今、何か見えたような……)

疑問に思ってよく目をこらすと、絵の具の盛り上がった箇所が光を受けて何かの形を浮かび上がらせたのだとわかる。そこに意図的なものを感じて、あらゆる角度へと絵を傾けていくと、それはある規則性をもって光啓の前にその疑問を提示した。

「アルファベット……? h……o……――」

光啓はその文字を紙に書き出していく。

「howdo,youtrust……妙なところで区切られているけど……How do you trustかな?」

『どうやって信用する?』

それはまるで光啓自身にそう問いかけてくるようで、光啓はこのメッセージを仕込んだ者に奇妙な興味を抱いたのだった。

1

■第一話

その駄菓子屋には、ツケというシステムがあった。

記憶力に自信がなくなっていた店主の老婆は、どの子が何をツケで買ったかを台帳に書き留めていた。

ある日、悪い子供がこっそりと老婆の台帳を書き換えてしまい、駄菓子屋は大混乱に陥った。

そこで駄菓子屋の平和を願う子供たちは二度と同じことが起こらぬよう、ツケの情報を老婆ひとりではなく子供たち全員で管理することにした。

全員が台帳持ち、『同じ情報』が『同時に複数』存在するようにしたのだ。

更に、情報を更新する時は台帳の持ち主の半数以上が確認をしてから、というルールも決めた。

これで悪い子供がまた台帳の書き換えを企んだところで、正しい情報が失われることはなくなった。

「――とまあ、ビットコインとかで使われてるブロックチェーンの大雑把な考え方としてはこんな感じかな。台帳の新しいページ作りをしてくれた子にはお菓子をあげるとか、これを実現するために必要な諸々の仕組みはあるけど……。ともかく、直接のハッキングによるリスクがないってメリットがあるんだ」

そう告げた芥川 光啓(あくたがわ みつひろ)の前で、志賀 奈々(しが なな)は、うん、と真剣な表情で頷き。

「子どもたちにツケを許してくれる優しいお婆ちゃんのお店が守られて本当に良かった……!」

「そうだね……例え話の中のお店だけど」

「あ、でも説明のほうも、“たぶん”理解できました!」

「良かったよ。それで……僕が気になってるのは、『Satoshi Nakamoto』は何故この仕組みを作り、自分が何者かを伏せたまま世に放ったのかってこと……」

光啓は自身のスマホの画面に目を落とし、そこに映し出された文字の向こう側にいる人物に語りかけるように続けた。

「そこに、何か大きなヒントがある気がするんだ……」

開かれたメッセージアプリには『未来に光を』という文字だけが淡い光の中にあった。

一ヶ月前――

落ち着いた色合いのカーテンとラグ、木目の美しいテーブル、柔らかさにこだわったソファ。

快適な休日を過ごすためにと勤め人になってからこだわりをもって整えられたリビング。今は事情があって素材にこだわる余裕はなくなってしまってはいるが、ここでゆっくりと紅茶とお気に入りのクラシックを嗜むのが、激務の日々を送る光啓のささやかな楽しみだった。

……のだが。

「……何?」

唐突に電話をかけてきた相手の男に対し、光啓は不機嫌の隠しきれていない声で言った。

『なあ、急で悪いんだけど、ちょっと頼みがあってさ。今……』

「僕、休みなんだけど」

男は何かを説明しようとしていたが、光啓は話を聞く前に慌てて口を挟んだ。それも仕方ないだろう。同僚の泉 涼佑(いずみ りょうすけ)が持ってくる「頼みごと」は毎度ろくなことがないからだ。

「せめて、明日出勤してからに……」

『理由は説明できねーけど、めっちゃくちゃ緊急なんだよ! ってわけで今からそっち行くから、よろしく!』

「ちょ、ちょっと待っ……あ」

なんとか断ろうとする光啓を無視して、涼佑は一方的にまくしたてて通話を切ってしまった。

「相変わらず人の話を聞かないんだから……」

困った相手だが、それがわかっていて電話に出ないという選択をしなかった自分のせいでもある。のんびりと音楽鑑賞をするのを諦めて、涼佑と、恐らく彼が「頼みごと」と共に連れてくるのだろう誰かのためにカップを用意するのだった。

「……それで」

光啓は向かいのソファに腰掛けたふたりの客人を前に溜息を吐き出した。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「ごめんなさい! まさかこんなことになるなんて思ってなくて……」

奈々が申し訳なさそうに言うのに、光啓は「君が悪いんじゃないよ」と諦めの深い笑みを浮かべた。

光啓が予想したとおり、涼佑はひとりの女性を伴って現れた。予想外だったのは、それが顔見知りだったことだ。

「志賀さん?」

「なんだお前、知り合い?」

ふたりの反応に涼佑は一瞬驚いたようで、興味津々といった様子で光啓と奈々を交互に見たが、その当事者ふたりのほうは、なんと説明したものかという顔でお互いの顔を見合わせた。

友人という間柄ではないが、ただの知り合いという浅い関係ではない。それどころか光啓の家族にとって小さくない縁があるのだが、同僚のひとりでしかない涼佑に家庭の事情まで伝える気は光啓にはないのだ。

「ええっと……まあ、そんなところです」

奈々のほうもそんな光啓の考えを察したらしくどう説明しようかと困ってるようだったが、当の涼佑のほうは関係についてはまったく興味はないらしく「だったらちょうどいいや」と単純に笑った。

「おれの取引先のスポーツ用品メーカーのおっさんが、保険のことで困ってる社員がいるから話だけでも聞いてやってほしいってさー」

「……それでなんで家につれてきたのさ」

「やー、話を聞くなら本人とするのが一番じゃん?」

もっともらしいことを言っているが、絶対自分で聞くのがめんどかっただけだろ、と光啓はじとりと涼佑を見たが、当の本人はまったく悪びれた風もない上「暇つぶしにもちょうどいいじゃん」などと言う始末だ。

「お前、いっつも休みの日は家でぼーっと暇してるだけじゃん」

「……別に、ぼーっとしてるわけでも、暇してるわけでもないよ」

「暇じゃないって、もしかしてあれか? お前も例のコード探しか」

『コード探し』とは、一年前にネットを騒がせた『宝探し』だ。

曰く、様々な場所に隠された秘密の言葉を集めた者は巨額の富を得ることができるという。

その額、約3兆2000億円。オリンピックが開催できる規模だ。

主催者は『Satoshi Nakamoto』……世界で最初の仮想通貨ビットコインの創始者にして、正体不明の天才だ。

突如としてネット上に現れ、仮想通貨技術を発表した彼(あるいは彼女)は、2011年4月以降、ネット上から姿を消した。

保有している莫大な価値を持つビットコインも手つかずのまま、10年以上が過ぎた1年前……Satoshi NakamotoはSNS上に現れた。

そして、実際にSatoshi Nakamotoが保有していたビットコインを“動かし”、本物であることを証明してみせた後、「全てのコードを集めた者に、私が保有しているビットコイン全てを譲渡する」と残し、再びその消息を断ってしまった。

「あれから一年も経ってるんだよ。あんな雲を掴むような話、本気にしてる人なんてもういなくなったんじゃないの?」

「だから狙い目なんじゃねえか。競争は少ない方がいいだろ。それにお前、変な知識めっちゃあるし、謎解きとか好きじゃんか」

「……その話は置いといて」

このままだと協力させられる流れになりそうだったので、変に逸れてしまった話題を戻すように、光啓は視線を奈々の抱える荷物に向けた。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「だってそうでも言わないとお前、引き受けてくれないだろ?」

「当たり前でしょ、休みなんだから」

このお調子者に何度振り回されたことか。光啓はあからさまな溜息を吐き出した。

見た目だけはお人好しそうなイケメンだから頼みやすいのか、この男がこうして取引先からのお願いごとやら厄介ごとを持ちかけられては気安く受けて、光啓に丸投げしてくるのはいつものことだ。それがごくごく僅かではあるもののちゃんと仕事に繋がることがあるので、まったく無視することもできないのが厄介なところなのだ。

(けど……今回のこれは明らかにハズレだよなあ)

涼佑もそれがわかっているから理由を話さなかったのだろう。貴重な休日を潰されたイライラがまたひとつ深まって、光啓はちくりと刺すように涼佑を睨んだ。

「なんでこう、安請け合いしちゃうかな」

「困ったときはお互い様だろ?」

「それを解決してるの僕だけどね」

「あの! ね!」

どんどん光啓の空気が剣呑になっていく気配を感じてか、奈々がやや強引にふたりの間に割って入った。

「とりあえず、話、聞いてもらって良いかな」

「あ……うん、そうだね」

確かにこのままふたりで言い合いをしていたところで休日が消えていくだけなので、仕方なく奈々の提案に頷いたものの、彼女が抱えている包みの形と大きさから、光啓は何となくこの先の展開がわかっていた。

奈々がその包みをテーブルの上で開いていく。

「これなんですけど……」

そうして広げられたのは、光啓の予想していた通り一枚の絵画だった。なんとも言えないような色使いをした油絵らしい作品と成金趣味な額縁を前にげんなりしている光啓の様子には気付かず、奈々は誰かから渡されたらしいメモを取り出して説明する。

「えーと……これ、今まではぱっとしてこなかったけどインフルエンサーがSNSで紹介してから話題になってる18世紀の画家の作品なんだそうです。元々数が少なかったせいもあって、有名な画廊でも作品が手に入らないらしくて、希少価値が……」

「……つまり、この絵に保険を掛けたいって話だよね?」

持ち主の自慢げな顔が見えそうな長ったらしいメモを律儀に読み上げる奈々に、光啓は思わず遮った。

「でも、どうして志賀さんが?」

「持ち主の人がね、盗まれたりしたらどうしようって困ってたから、話を聞いてる内に頼まれちゃって……」

絵は「鑑定が必要かもしれないから」と半ば強引に渡されたらしい。こんな個人的なことでわざわざ光啓に連絡したら迷惑だろうと悩んでいたら、それが社長の目に留まって涼佑の耳に入ってここまで連れて来られた、というのが顛末らしい。本人は遠慮したのに光啓の元にやって来たというのだから、苦笑するしかない。

「美術品なら動産総合保険になるかな……たぶん掛け捨てになると思うけど大丈夫?」

「……やっぱり高いですか?」

奈々の不安げな声に、やはり心配ごとはそこだよな、と思いながら光啓は「ごめん」と素直に頭を下げた。

「こういうのは代理店の仕事で、俺みたいな本社営業じゃ直接扱ってはないからね。僕じゃちょっとそこまではわからないよ」

「お前、骨董品とか好きじゃ無かったっけ。鑑定とかできねーの?」

「専門外。保険にかかる金額は、絵画の値段や価値とイコールじゃないし」

「そっかあ……」

がっかりした様子の奈々に、申し訳ないような気持ちになったが、そもそ涼佑が最初からきちんと話を聞いていれば、無駄足を踏ませることはなかったのだ。内心で溜息をつきながら光啓は手帳を開きながら続ける。

「まあ、何人か専門を知ってるから、良さそうな代理店を紹介するよ」

「ありがとうございます!」

「さっすが芥川、頼りになるわー」

気楽に喜ぶ同僚の調子の良さに本日何度目かわからない溜息をつきながら、光啓はもうほとんど冷めかけの紅茶を口にし、ふと口を開いた。

「――それにしても、複製品にわざわざ保険を掛けるなんて、よっぽどその絵が気に入ったんだね、その人」

「「え?」」

光啓の声に、ふたりの驚いた声が重なる。

「複製……!?」

「……聞いてないの?」

「ほ……本物だって聞いてますけど」

奈々の困惑した表情に、光啓は眉を寄せた。

「……残念だけど、贋作(がんさく)を掴まされたみたいだね」

光啓の言葉は容赦がない。

「となると、どこで買ったのかが問題だなあ。うちの取引先で引っかかる人が出ないよう注意喚起しておきたいから、できればその人に買った経緯を教えてもらいたいんだけど……」

光啓の関心がすでに別の方向へ動いている中で、涼佑は戸惑いを隠せない様子でソファーから立ち上がった。

「なあ、どうして本物じゃ無いってわかったんだ?」

「どうしてって……んー、まず美術品に保険をかけるのを他人任せにしちゃうような人が、そんな希少価値の高い作品をホイホイ手に入れられると思えないから、怪しいと思ったんだよね」

さんざんな評価に奈々がちょっと複雑な顔をしたのに気付かず、奈々が光啓はトントンと額縁を指で叩く。

「さっきの説明だと……18世紀の作家なんだよね? それにしては額縁の時代が古すぎてズレてるし、逆に油絵の具の劣化がなさ過ぎる。少しのひび割れも無いのは不自然だし……この贋作を作ったの、本職じゃないのかな? あとは……ちょっと失礼……ああ、やっぱり」

目を丸くするふたりをよそに、光啓は絵を裏返して額縁の裏を外すとひとり納得して頷いた。

「わりと最近作ったやつだね、これ」

「最近!?」

もうほとんど悲鳴のようになったふたりの声に、光啓は淡々と説明を続ける。

「キャンバス地が真新しいでしょ。最近になって人気が出て、手に入りにくくなったのに目をつけた誰かが、儲かると思って作ったんじゃないかな……ん?」

他に何かおかしなところは無いだろうかと、隅々まで眺めていた、その時だ。

絵画の角度を変えた瞬間、その違和感が光啓の目に留まった。

(今、何か見えたような……)

疑問に思ってよく目をこらすと、絵の具の盛り上がった箇所が光を受けて何かの形を浮かび上がらせたのだとわかる。そこに意図的なものを感じて、あらゆる角度へと絵を傾けていくと、それはある規則性をもって光啓の前にその疑問を提示した。

「アルファベット……? h……o……――」

光啓はその文字を紙に書き出していく。

「howdo,youtrust……妙なところで区切られているけど……How do you trustかな?」

『どうやって信用する?』

それはまるで光啓自身にそう問いかけてくるようで、光啓はこのメッセージを仕込んだ者に奇妙な興味を抱いたのだった。

1

■第一話

その駄菓子屋には、ツケというシステムがあった。

記憶力に自信がなくなっていた店主の老婆は、どの子が何をツケで買ったかを台帳に書き留めていた。

ある日、悪い子供がこっそりと老婆の台帳を書き換えてしまい、駄菓子屋は大混乱に陥った。

そこで駄菓子屋の平和を願う子供たちは二度と同じことが起こらぬよう、ツケの情報を老婆ひとりではなく子供たち全員で管理することにした。

全員が台帳持ち、『同じ情報』が『同時に複数』存在するようにしたのだ。

更に、情報を更新する時は台帳の持ち主の半数以上が確認をしてから、というルールも決めた。

これで悪い子供がまた台帳の書き換えを企んだところで、正しい情報が失われることはなくなった。

「――とまあ、ビットコインとかで使われてるブロックチェーンの大雑把な考え方としてはこんな感じかな。台帳の新しいページ作りをしてくれた子にはお菓子をあげるとか、これを実現するために必要な諸々の仕組みはあるけど……。ともかく、直接のハッキングによるリスクがないってメリットがあるんだ」

そう告げた芥川 光啓(あくたがわ みつひろ)の前で、志賀 奈々(しが なな)は、うん、と真剣な表情で頷き。

「子どもたちにツケを許してくれる優しいお婆ちゃんのお店が守られて本当に良かった……!」

「そうだね……例え話の中のお店だけど」

「あ、でも説明のほうも、“たぶん”理解できました!」

「良かったよ。それで……僕が気になってるのは、『Satoshi Nakamoto』は何故この仕組みを作り、自分が何者かを伏せたまま世に放ったのかってこと……」

光啓は自身のスマホの画面に目を落とし、そこに映し出された文字の向こう側にいる人物に語りかけるように続けた。

「そこに、何か大きなヒントがある気がするんだ……」

開かれたメッセージアプリには『未来に光を』という文字だけが淡い光の中にあった。

一ヶ月前――

落ち着いた色合いのカーテンとラグ、木目の美しいテーブル、柔らかさにこだわったソファ。

快適な休日を過ごすためにと勤め人になってからこだわりをもって整えられたリビング。今は事情があって素材にこだわる余裕はなくなってしまってはいるが、ここでゆっくりと紅茶とお気に入りのクラシックを嗜むのが、激務の日々を送る光啓のささやかな楽しみだった。

……のだが。

「……何?」

唐突に電話をかけてきた相手の男に対し、光啓は不機嫌の隠しきれていない声で言った。

『なあ、急で悪いんだけど、ちょっと頼みがあってさ。今……』

「僕、休みなんだけど」

男は何かを説明しようとしていたが、光啓は話を聞く前に慌てて口を挟んだ。それも仕方ないだろう。同僚の泉 涼佑(いずみ りょうすけ)が持ってくる「頼みごと」は毎度ろくなことがないからだ。

「せめて、明日出勤してからに……」

『理由は説明できねーけど、めっちゃくちゃ緊急なんだよ! ってわけで今からそっち行くから、よろしく!』

「ちょ、ちょっと待っ……あ」

なんとか断ろうとする光啓を無視して、涼佑は一方的にまくしたてて通話を切ってしまった。

「相変わらず人の話を聞かないんだから……」

困った相手だが、それがわかっていて電話に出ないという選択をしなかった自分のせいでもある。のんびりと音楽鑑賞をするのを諦めて、涼佑と、恐らく彼が「頼みごと」と共に連れてくるのだろう誰かのためにカップを用意するのだった。

「……それで」

光啓は向かいのソファに腰掛けたふたりの客人を前に溜息を吐き出した。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「ごめんなさい! まさかこんなことになるなんて思ってなくて……」

奈々が申し訳なさそうに言うのに、光啓は「君が悪いんじゃないよ」と諦めの深い笑みを浮かべた。

光啓が予想したとおり、涼佑はひとりの女性を伴って現れた。予想外だったのは、それが顔見知りだったことだ。

「志賀さん?」

「なんだお前、知り合い?」

ふたりの反応に涼佑は一瞬驚いたようで、興味津々といった様子で光啓と奈々を交互に見たが、その当事者ふたりのほうは、なんと説明したものかという顔でお互いの顔を見合わせた。

友人という間柄ではないが、ただの知り合いという浅い関係ではない。それどころか光啓の家族にとって小さくない縁があるのだが、同僚のひとりでしかない涼佑に家庭の事情まで伝える気は光啓にはないのだ。

「ええっと……まあ、そんなところです」

奈々のほうもそんな光啓の考えを察したらしくどう説明しようかと困ってるようだったが、当の涼佑のほうは関係についてはまったく興味はないらしく「だったらちょうどいいや」と単純に笑った。

「おれの取引先のスポーツ用品メーカーのおっさんが、保険のことで困ってる社員がいるから話だけでも聞いてやってほしいってさー」

「……それでなんで家につれてきたのさ」

「やー、話を聞くなら本人とするのが一番じゃん?」

もっともらしいことを言っているが、絶対自分で聞くのがめんどかっただけだろ、と光啓はじとりと涼佑を見たが、当の本人はまったく悪びれた風もない上「暇つぶしにもちょうどいいじゃん」などと言う始末だ。

「お前、いっつも休みの日は家でぼーっと暇してるだけじゃん」

「……別に、ぼーっとしてるわけでも、暇してるわけでもないよ」

「暇じゃないって、もしかしてあれか? お前も例のコード探しか」

『コード探し』とは、一年前にネットを騒がせた『宝探し』だ。

曰く、様々な場所に隠された秘密の言葉を集めた者は巨額の富を得ることができるという。

その額、約3兆2000億円。オリンピックが開催できる規模だ。

主催者は『Satoshi Nakamoto』……世界で最初の仮想通貨ビットコインの創始者にして、正体不明の天才だ。

突如としてネット上に現れ、仮想通貨技術を発表した彼(あるいは彼女)は、2011年4月以降、ネット上から姿を消した。

保有している莫大な価値を持つビットコインも手つかずのまま、10年以上が過ぎた1年前……Satoshi NakamotoはSNS上に現れた。

そして、実際にSatoshi Nakamotoが保有していたビットコインを“動かし”、本物であることを証明してみせた後、「全てのコードを集めた者に、私が保有しているビットコイン全てを譲渡する」と残し、再びその消息を断ってしまった。

「あれから一年も経ってるんだよ。あんな雲を掴むような話、本気にしてる人なんてもういなくなったんじゃないの?」

「だから狙い目なんじゃねえか。競争は少ない方がいいだろ。それにお前、変な知識めっちゃあるし、謎解きとか好きじゃんか」

「……その話は置いといて」

このままだと協力させられる流れになりそうだったので、変に逸れてしまった話題を戻すように、光啓は視線を奈々の抱える荷物に向けた。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「だってそうでも言わないとお前、引き受けてくれないだろ?」

「当たり前でしょ、休みなんだから」

このお調子者に何度振り回されたことか。光啓はあからさまな溜息を吐き出した。

見た目だけはお人好しそうなイケメンだから頼みやすいのか、この男がこうして取引先からのお願いごとやら厄介ごとを持ちかけられては気安く受けて、光啓に丸投げしてくるのはいつものことだ。それがごくごく僅かではあるもののちゃんと仕事に繋がることがあるので、まったく無視することもできないのが厄介なところなのだ。

(けど……今回のこれは明らかにハズレだよなあ)

涼佑もそれがわかっているから理由を話さなかったのだろう。貴重な休日を潰されたイライラがまたひとつ深まって、光啓はちくりと刺すように涼佑を睨んだ。

「なんでこう、安請け合いしちゃうかな」

「困ったときはお互い様だろ?」

「それを解決してるの僕だけどね」

「あの! ね!」

どんどん光啓の空気が剣呑になっていく気配を感じてか、奈々がやや強引にふたりの間に割って入った。

「とりあえず、話、聞いてもらって良いかな」

「あ……うん、そうだね」

確かにこのままふたりで言い合いをしていたところで休日が消えていくだけなので、仕方なく奈々の提案に頷いたものの、彼女が抱えている包みの形と大きさから、光啓は何となくこの先の展開がわかっていた。

奈々がその包みをテーブルの上で開いていく。

「これなんですけど……」

そうして広げられたのは、光啓の予想していた通り一枚の絵画だった。なんとも言えないような色使いをした油絵らしい作品と成金趣味な額縁を前にげんなりしている光啓の様子には気付かず、奈々は誰かから渡されたらしいメモを取り出して説明する。

「えーと……これ、今まではぱっとしてこなかったけどインフルエンサーがSNSで紹介してから話題になってる18世紀の画家の作品なんだそうです。元々数が少なかったせいもあって、有名な画廊でも作品が手に入らないらしくて、希少価値が……」

「……つまり、この絵に保険を掛けたいって話だよね?」

持ち主の自慢げな顔が見えそうな長ったらしいメモを律儀に読み上げる奈々に、光啓は思わず遮った。

「でも、どうして志賀さんが?」

「持ち主の人がね、盗まれたりしたらどうしようって困ってたから、話を聞いてる内に頼まれちゃって……」

絵は「鑑定が必要かもしれないから」と半ば強引に渡されたらしい。こんな個人的なことでわざわざ光啓に連絡したら迷惑だろうと悩んでいたら、それが社長の目に留まって涼佑の耳に入ってここまで連れて来られた、というのが顛末らしい。本人は遠慮したのに光啓の元にやって来たというのだから、苦笑するしかない。

「美術品なら動産総合保険になるかな……たぶん掛け捨てになると思うけど大丈夫?」

「……やっぱり高いですか?」

奈々の不安げな声に、やはり心配ごとはそこだよな、と思いながら光啓は「ごめん」と素直に頭を下げた。

「こういうのは代理店の仕事で、俺みたいな本社営業じゃ直接扱ってはないからね。僕じゃちょっとそこまではわからないよ」

「お前、骨董品とか好きじゃ無かったっけ。鑑定とかできねーの?」

「専門外。保険にかかる金額は、絵画の値段や価値とイコールじゃないし」

「そっかあ……」

がっかりした様子の奈々に、申し訳ないような気持ちになったが、そもそ涼佑が最初からきちんと話を聞いていれば、無駄足を踏ませることはなかったのだ。内心で溜息をつきながら光啓は手帳を開きながら続ける。

「まあ、何人か専門を知ってるから、良さそうな代理店を紹介するよ」

「ありがとうございます!」

「さっすが芥川、頼りになるわー」

気楽に喜ぶ同僚の調子の良さに本日何度目かわからない溜息をつきながら、光啓はもうほとんど冷めかけの紅茶を口にし、ふと口を開いた。

「――それにしても、複製品にわざわざ保険を掛けるなんて、よっぽどその絵が気に入ったんだね、その人」

「「え?」」

光啓の声に、ふたりの驚いた声が重なる。

「複製……!?」

「……聞いてないの?」

「ほ……本物だって聞いてますけど」

奈々の困惑した表情に、光啓は眉を寄せた。

「……残念だけど、贋作(がんさく)を掴まされたみたいだね」

光啓の言葉は容赦がない。

「となると、どこで買ったのかが問題だなあ。うちの取引先で引っかかる人が出ないよう注意喚起しておきたいから、できればその人に買った経緯を教えてもらいたいんだけど……」

光啓の関心がすでに別の方向へ動いている中で、涼佑は戸惑いを隠せない様子でソファーから立ち上がった。

「なあ、どうして本物じゃ無いってわかったんだ?」

「どうしてって……んー、まず美術品に保険をかけるのを他人任せにしちゃうような人が、そんな希少価値の高い作品をホイホイ手に入れられると思えないから、怪しいと思ったんだよね」

さんざんな評価に奈々がちょっと複雑な顔をしたのに気付かず、奈々が光啓はトントンと額縁を指で叩く。

「さっきの説明だと……18世紀の作家なんだよね? それにしては額縁の時代が古すぎてズレてるし、逆に油絵の具の劣化がなさ過ぎる。少しのひび割れも無いのは不自然だし……この贋作を作ったの、本職じゃないのかな? あとは……ちょっと失礼……ああ、やっぱり」

目を丸くするふたりをよそに、光啓は絵を裏返して額縁の裏を外すとひとり納得して頷いた。

「わりと最近作ったやつだね、これ」

「最近!?」

もうほとんど悲鳴のようになったふたりの声に、光啓は淡々と説明を続ける。

「キャンバス地が真新しいでしょ。最近になって人気が出て、手に入りにくくなったのに目をつけた誰かが、儲かると思って作ったんじゃないかな……ん?」

他に何かおかしなところは無いだろうかと、隅々まで眺めていた、その時だ。

絵画の角度を変えた瞬間、その違和感が光啓の目に留まった。

(今、何か見えたような……)

疑問に思ってよく目をこらすと、絵の具の盛り上がった箇所が光を受けて何かの形を浮かび上がらせたのだとわかる。そこに意図的なものを感じて、あらゆる角度へと絵を傾けていくと、それはある規則性をもって光啓の前にその疑問を提示した。

「アルファベット……? h……o……――」

光啓はその文字を紙に書き出していく。

「howdo,youtrust……妙なところで区切られているけど……How do you trustかな?」

『どうやって信用する?』

それはまるで光啓自身にそう問いかけてくるようで、光啓はこのメッセージを仕込んだ者に奇妙な興味を抱いたのだった。

1

■第一話

その駄菓子屋には、ツケというシステムがあった。

記憶力に自信がなくなっていた店主の老婆は、どの子が何をツケで買ったかを台帳に書き留めていた。

ある日、悪い子供がこっそりと老婆の台帳を書き換えてしまい、駄菓子屋は大混乱に陥った。

そこで駄菓子屋の平和を願う子供たちは二度と同じことが起こらぬよう、ツケの情報を老婆ひとりではなく子供たち全員で管理することにした。

全員が台帳持ち、『同じ情報』が『同時に複数』存在するようにしたのだ。

更に、情報を更新する時は台帳の持ち主の半数以上が確認をしてから、というルールも決めた。

これで悪い子供がまた台帳の書き換えを企んだところで、正しい情報が失われることはなくなった。

「――とまあ、ビットコインとかで使われてるブロックチェーンの大雑把な考え方としてはこんな感じかな。台帳の新しいページ作りをしてくれた子にはお菓子をあげるとか、これを実現するために必要な諸々の仕組みはあるけど……。ともかく、直接のハッキングによるリスクがないってメリットがあるんだ」

そう告げた芥川 光啓(あくたがわ みつひろ)の前で、志賀 奈々(しが なな)は、うん、と真剣な表情で頷き。

「子どもたちにツケを許してくれる優しいお婆ちゃんのお店が守られて本当に良かった……!」

「そうだね……例え話の中のお店だけど」

「あ、でも説明のほうも、“たぶん”理解できました!」

「良かったよ。それで……僕が気になってるのは、『Satoshi Nakamoto』は何故この仕組みを作り、自分が何者かを伏せたまま世に放ったのかってこと……」

光啓は自身のスマホの画面に目を落とし、そこに映し出された文字の向こう側にいる人物に語りかけるように続けた。

「そこに、何か大きなヒントがある気がするんだ……」

開かれたメッセージアプリには『未来に光を』という文字だけが淡い光の中にあった。

一ヶ月前――

落ち着いた色合いのカーテンとラグ、木目の美しいテーブル、柔らかさにこだわったソファ。

快適な休日を過ごすためにと勤め人になってからこだわりをもって整えられたリビング。今は事情があって素材にこだわる余裕はなくなってしまってはいるが、ここでゆっくりと紅茶とお気に入りのクラシックを嗜むのが、激務の日々を送る光啓のささやかな楽しみだった。

……のだが。

「……何?」

唐突に電話をかけてきた相手の男に対し、光啓は不機嫌の隠しきれていない声で言った。

『なあ、急で悪いんだけど、ちょっと頼みがあってさ。今……』

「僕、休みなんだけど」

男は何かを説明しようとしていたが、光啓は話を聞く前に慌てて口を挟んだ。それも仕方ないだろう。同僚の泉 涼佑(いずみ りょうすけ)が持ってくる「頼みごと」は毎度ろくなことがないからだ。

「せめて、明日出勤してからに……」

『理由は説明できねーけど、めっちゃくちゃ緊急なんだよ! ってわけで今からそっち行くから、よろしく!』

「ちょ、ちょっと待っ……あ」

なんとか断ろうとする光啓を無視して、涼佑は一方的にまくしたてて通話を切ってしまった。

「相変わらず人の話を聞かないんだから……」

困った相手だが、それがわかっていて電話に出ないという選択をしなかった自分のせいでもある。のんびりと音楽鑑賞をするのを諦めて、涼佑と、恐らく彼が「頼みごと」と共に連れてくるのだろう誰かのためにカップを用意するのだった。

「……それで」

光啓は向かいのソファに腰掛けたふたりの客人を前に溜息を吐き出した。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「ごめんなさい! まさかこんなことになるなんて思ってなくて……」

奈々が申し訳なさそうに言うのに、光啓は「君が悪いんじゃないよ」と諦めの深い笑みを浮かべた。

光啓が予想したとおり、涼佑はひとりの女性を伴って現れた。予想外だったのは、それが顔見知りだったことだ。

「志賀さん?」

「なんだお前、知り合い?」

ふたりの反応に涼佑は一瞬驚いたようで、興味津々といった様子で光啓と奈々を交互に見たが、その当事者ふたりのほうは、なんと説明したものかという顔でお互いの顔を見合わせた。

友人という間柄ではないが、ただの知り合いという浅い関係ではない。それどころか光啓の家族にとって小さくない縁があるのだが、同僚のひとりでしかない涼佑に家庭の事情まで伝える気は光啓にはないのだ。

「ええっと……まあ、そんなところです」

奈々のほうもそんな光啓の考えを察したらしくどう説明しようかと困ってるようだったが、当の涼佑のほうは関係についてはまったく興味はないらしく「だったらちょうどいいや」と単純に笑った。

「おれの取引先のスポーツ用品メーカーのおっさんが、保険のことで困ってる社員がいるから話だけでも聞いてやってほしいってさー」

「……それでなんで家につれてきたのさ」

「やー、話を聞くなら本人とするのが一番じゃん?」

もっともらしいことを言っているが、絶対自分で聞くのがめんどかっただけだろ、と光啓はじとりと涼佑を見たが、当の本人はまったく悪びれた風もない上「暇つぶしにもちょうどいいじゃん」などと言う始末だ。

「お前、いっつも休みの日は家でぼーっと暇してるだけじゃん」

「……別に、ぼーっとしてるわけでも、暇してるわけでもないよ」

「暇じゃないって、もしかしてあれか? お前も例のコード探しか」

『コード探し』とは、一年前にネットを騒がせた『宝探し』だ。

曰く、様々な場所に隠された秘密の言葉を集めた者は巨額の富を得ることができるという。

その額、約3兆2000億円。オリンピックが開催できる規模だ。

主催者は『Satoshi Nakamoto』……世界で最初の仮想通貨ビットコインの創始者にして、正体不明の天才だ。

突如としてネット上に現れ、仮想通貨技術を発表した彼(あるいは彼女)は、2011年4月以降、ネット上から姿を消した。

保有している莫大な価値を持つビットコインも手つかずのまま、10年以上が過ぎた1年前……Satoshi NakamotoはSNS上に現れた。

そして、実際にSatoshi Nakamotoが保有していたビットコインを“動かし”、本物であることを証明してみせた後、「全てのコードを集めた者に、私が保有しているビットコイン全てを譲渡する」と残し、再びその消息を断ってしまった。

「あれから一年も経ってるんだよ。あんな雲を掴むような話、本気にしてる人なんてもういなくなったんじゃないの?」

「だから狙い目なんじゃねえか。競争は少ない方がいいだろ。それにお前、変な知識めっちゃあるし、謎解きとか好きじゃんか」

「……その話は置いといて」

このままだと協力させられる流れになりそうだったので、変に逸れてしまった話題を戻すように、光啓は視線を奈々の抱える荷物に向けた。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「だってそうでも言わないとお前、引き受けてくれないだろ?」

「当たり前でしょ、休みなんだから」

このお調子者に何度振り回されたことか。光啓はあからさまな溜息を吐き出した。

見た目だけはお人好しそうなイケメンだから頼みやすいのか、この男がこうして取引先からのお願いごとやら厄介ごとを持ちかけられては気安く受けて、光啓に丸投げしてくるのはいつものことだ。それがごくごく僅かではあるもののちゃんと仕事に繋がることがあるので、まったく無視することもできないのが厄介なところなのだ。

(けど……今回のこれは明らかにハズレだよなあ)

涼佑もそれがわかっているから理由を話さなかったのだろう。貴重な休日を潰されたイライラがまたひとつ深まって、光啓はちくりと刺すように涼佑を睨んだ。

「なんでこう、安請け合いしちゃうかな」

「困ったときはお互い様だろ?」

「それを解決してるの僕だけどね」

「あの! ね!」

どんどん光啓の空気が剣呑になっていく気配を感じてか、奈々がやや強引にふたりの間に割って入った。

「とりあえず、話、聞いてもらって良いかな」

「あ……うん、そうだね」

確かにこのままふたりで言い合いをしていたところで休日が消えていくだけなので、仕方なく奈々の提案に頷いたものの、彼女が抱えている包みの形と大きさから、光啓は何となくこの先の展開がわかっていた。

奈々がその包みをテーブルの上で開いていく。

「これなんですけど……」

そうして広げられたのは、光啓の予想していた通り一枚の絵画だった。なんとも言えないような色使いをした油絵らしい作品と成金趣味な額縁を前にげんなりしている光啓の様子には気付かず、奈々は誰かから渡されたらしいメモを取り出して説明する。

「えーと……これ、今まではぱっとしてこなかったけどインフルエンサーがSNSで紹介してから話題になってる18世紀の画家の作品なんだそうです。元々数が少なかったせいもあって、有名な画廊でも作品が手に入らないらしくて、希少価値が……」

「……つまり、この絵に保険を掛けたいって話だよね?」

持ち主の自慢げな顔が見えそうな長ったらしいメモを律儀に読み上げる奈々に、光啓は思わず遮った。

「でも、どうして志賀さんが?」

「持ち主の人がね、盗まれたりしたらどうしようって困ってたから、話を聞いてる内に頼まれちゃって……」

絵は「鑑定が必要かもしれないから」と半ば強引に渡されたらしい。こんな個人的なことでわざわざ光啓に連絡したら迷惑だろうと悩んでいたら、それが社長の目に留まって涼佑の耳に入ってここまで連れて来られた、というのが顛末らしい。本人は遠慮したのに光啓の元にやって来たというのだから、苦笑するしかない。

「美術品なら動産総合保険になるかな……たぶん掛け捨てになると思うけど大丈夫?」

「……やっぱり高いですか?」

奈々の不安げな声に、やはり心配ごとはそこだよな、と思いながら光啓は「ごめん」と素直に頭を下げた。

「こういうのは代理店の仕事で、俺みたいな本社営業じゃ直接扱ってはないからね。僕じゃちょっとそこまではわからないよ」

「お前、骨董品とか好きじゃ無かったっけ。鑑定とかできねーの?」

「専門外。保険にかかる金額は、絵画の値段や価値とイコールじゃないし」

「そっかあ……」

がっかりした様子の奈々に、申し訳ないような気持ちになったが、そもそ涼佑が最初からきちんと話を聞いていれば、無駄足を踏ませることはなかったのだ。内心で溜息をつきながら光啓は手帳を開きながら続ける。

「まあ、何人か専門を知ってるから、良さそうな代理店を紹介するよ」

「ありがとうございます!」

「さっすが芥川、頼りになるわー」

気楽に喜ぶ同僚の調子の良さに本日何度目かわからない溜息をつきながら、光啓はもうほとんど冷めかけの紅茶を口にし、ふと口を開いた。

「――それにしても、複製品にわざわざ保険を掛けるなんて、よっぽどその絵が気に入ったんだね、その人」

「「え?」」

光啓の声に、ふたりの驚いた声が重なる。

「複製……!?」

「……聞いてないの?」

「ほ……本物だって聞いてますけど」

奈々の困惑した表情に、光啓は眉を寄せた。

「……残念だけど、贋作(がんさく)を掴まされたみたいだね」

光啓の言葉は容赦がない。

「となると、どこで買ったのかが問題だなあ。うちの取引先で引っかかる人が出ないよう注意喚起しておきたいから、できればその人に買った経緯を教えてもらいたいんだけど……」

光啓の関心がすでに別の方向へ動いている中で、涼佑は戸惑いを隠せない様子でソファーから立ち上がった。

「なあ、どうして本物じゃ無いってわかったんだ?」

「どうしてって……んー、まず美術品に保険をかけるのを他人任せにしちゃうような人が、そんな希少価値の高い作品をホイホイ手に入れられると思えないから、怪しいと思ったんだよね」

さんざんな評価に奈々がちょっと複雑な顔をしたのに気付かず、奈々が光啓はトントンと額縁を指で叩く。

「さっきの説明だと……18世紀の作家なんだよね? それにしては額縁の時代が古すぎてズレてるし、逆に油絵の具の劣化がなさ過ぎる。少しのひび割れも無いのは不自然だし……この贋作を作ったの、本職じゃないのかな? あとは……ちょっと失礼……ああ、やっぱり」

目を丸くするふたりをよそに、光啓は絵を裏返して額縁の裏を外すとひとり納得して頷いた。

「わりと最近作ったやつだね、これ」

「最近!?」

もうほとんど悲鳴のようになったふたりの声に、光啓は淡々と説明を続ける。

「キャンバス地が真新しいでしょ。最近になって人気が出て、手に入りにくくなったのに目をつけた誰かが、儲かると思って作ったんじゃないかな……ん?」

他に何かおかしなところは無いだろうかと、隅々まで眺めていた、その時だ。

絵画の角度を変えた瞬間、その違和感が光啓の目に留まった。

(今、何か見えたような……)

疑問に思ってよく目をこらすと、絵の具の盛り上がった箇所が光を受けて何かの形を浮かび上がらせたのだとわかる。そこに意図的なものを感じて、あらゆる角度へと絵を傾けていくと、それはある規則性をもって光啓の前にその疑問を提示した。

「アルファベット……? h……o……――」

光啓はその文字を紙に書き出していく。

「howdo,youtrust……妙なところで区切られているけど……How do you trustかな?」

『どうやって信用する?』

それはまるで光啓自身にそう問いかけてくるようで、光啓はこのメッセージを仕込んだ者に奇妙な興味を抱いたのだった。

1

■第一話

その駄菓子屋には、ツケというシステムがあった。

記憶力に自信がなくなっていた店主の老婆は、どの子が何をツケで買ったかを台帳に書き留めていた。

ある日、悪い子供がこっそりと老婆の台帳を書き換えてしまい、駄菓子屋は大混乱に陥った。

そこで駄菓子屋の平和を願う子供たちは二度と同じことが起こらぬよう、ツケの情報を老婆ひとりではなく子供たち全員で管理することにした。

全員が台帳持ち、『同じ情報』が『同時に複数』存在するようにしたのだ。

更に、情報を更新する時は台帳の持ち主の半数以上が確認をしてから、というルールも決めた。

これで悪い子供がまた台帳の書き換えを企んだところで、正しい情報が失われることはなくなった。

「――とまあ、ビットコインとかで使われてるブロックチェーンの大雑把な考え方としてはこんな感じかな。台帳の新しいページ作りをしてくれた子にはお菓子をあげるとか、これを実現するために必要な諸々の仕組みはあるけど……。ともかく、直接のハッキングによるリスクがないってメリットがあるんだ」

そう告げた芥川 光啓(あくたがわ みつひろ)の前で、志賀 奈々(しが なな)は、うん、と真剣な表情で頷き。

「子どもたちにツケを許してくれる優しいお婆ちゃんのお店が守られて本当に良かった……!」

「そうだね……例え話の中のお店だけど」

「あ、でも説明のほうも、“たぶん”理解できました!」

「良かったよ。それで……僕が気になってるのは、『Satoshi Nakamoto』は何故この仕組みを作り、自分が何者かを伏せたまま世に放ったのかってこと……」

光啓は自身のスマホの画面に目を落とし、そこに映し出された文字の向こう側にいる人物に語りかけるように続けた。

「そこに、何か大きなヒントがある気がするんだ……」

開かれたメッセージアプリには『未来に光を』という文字だけが淡い光の中にあった。

一ヶ月前――

落ち着いた色合いのカーテンとラグ、木目の美しいテーブル、柔らかさにこだわったソファ。

快適な休日を過ごすためにと勤め人になってからこだわりをもって整えられたリビング。今は事情があって素材にこだわる余裕はなくなってしまってはいるが、ここでゆっくりと紅茶とお気に入りのクラシックを嗜むのが、激務の日々を送る光啓のささやかな楽しみだった。

……のだが。

「……何?」

唐突に電話をかけてきた相手の男に対し、光啓は不機嫌の隠しきれていない声で言った。

『なあ、急で悪いんだけど、ちょっと頼みがあってさ。今……』

「僕、休みなんだけど」

男は何かを説明しようとしていたが、光啓は話を聞く前に慌てて口を挟んだ。それも仕方ないだろう。同僚の泉 涼佑(いずみ りょうすけ)が持ってくる「頼みごと」は毎度ろくなことがないからだ。

「せめて、明日出勤してからに……」

『理由は説明できねーけど、めっちゃくちゃ緊急なんだよ! ってわけで今からそっち行くから、よろしく!』

「ちょ、ちょっと待っ……あ」

なんとか断ろうとする光啓を無視して、涼佑は一方的にまくしたてて通話を切ってしまった。

「相変わらず人の話を聞かないんだから……」

困った相手だが、それがわかっていて電話に出ないという選択をしなかった自分のせいでもある。のんびりと音楽鑑賞をするのを諦めて、涼佑と、恐らく彼が「頼みごと」と共に連れてくるのだろう誰かのためにカップを用意するのだった。

「……それで」

光啓は向かいのソファに腰掛けたふたりの客人を前に溜息を吐き出した。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「ごめんなさい! まさかこんなことになるなんて思ってなくて……」

奈々が申し訳なさそうに言うのに、光啓は「君が悪いんじゃないよ」と諦めの深い笑みを浮かべた。

光啓が予想したとおり、涼佑はひとりの女性を伴って現れた。予想外だったのは、それが顔見知りだったことだ。

「志賀さん?」

「なんだお前、知り合い?」

ふたりの反応に涼佑は一瞬驚いたようで、興味津々といった様子で光啓と奈々を交互に見たが、その当事者ふたりのほうは、なんと説明したものかという顔でお互いの顔を見合わせた。

友人という間柄ではないが、ただの知り合いという浅い関係ではない。それどころか光啓の家族にとって小さくない縁があるのだが、同僚のひとりでしかない涼佑に家庭の事情まで伝える気は光啓にはないのだ。

「ええっと……まあ、そんなところです」

奈々のほうもそんな光啓の考えを察したらしくどう説明しようかと困ってるようだったが、当の涼佑のほうは関係についてはまったく興味はないらしく「だったらちょうどいいや」と単純に笑った。

「おれの取引先のスポーツ用品メーカーのおっさんが、保険のことで困ってる社員がいるから話だけでも聞いてやってほしいってさー」

「……それでなんで家につれてきたのさ」

「やー、話を聞くなら本人とするのが一番じゃん?」

もっともらしいことを言っているが、絶対自分で聞くのがめんどかっただけだろ、と光啓はじとりと涼佑を見たが、当の本人はまったく悪びれた風もない上「暇つぶしにもちょうどいいじゃん」などと言う始末だ。

「お前、いっつも休みの日は家でぼーっと暇してるだけじゃん」

「……別に、ぼーっとしてるわけでも、暇してるわけでもないよ」

「暇じゃないって、もしかしてあれか? お前も例のコード探しか」

『コード探し』とは、一年前にネットを騒がせた『宝探し』だ。

曰く、様々な場所に隠された秘密の言葉を集めた者は巨額の富を得ることができるという。

その額、約3兆2000億円。オリンピックが開催できる規模だ。

主催者は『Satoshi Nakamoto』……世界で最初の仮想通貨ビットコインの創始者にして、正体不明の天才だ。

突如としてネット上に現れ、仮想通貨技術を発表した彼(あるいは彼女)は、2011年4月以降、ネット上から姿を消した。

保有している莫大な価値を持つビットコインも手つかずのまま、10年以上が過ぎた1年前……Satoshi NakamotoはSNS上に現れた。

そして、実際にSatoshi Nakamotoが保有していたビットコインを“動かし”、本物であることを証明してみせた後、「全てのコードを集めた者に、私が保有しているビットコイン全てを譲渡する」と残し、再びその消息を断ってしまった。

「あれから一年も経ってるんだよ。あんな雲を掴むような話、本気にしてる人なんてもういなくなったんじゃないの?」

「だから狙い目なんじゃねえか。競争は少ない方がいいだろ。それにお前、変な知識めっちゃあるし、謎解きとか好きじゃんか」

「……その話は置いといて」

このままだと協力させられる流れになりそうだったので、変に逸れてしまった話題を戻すように、光啓は視線を奈々の抱える荷物に向けた。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「だってそうでも言わないとお前、引き受けてくれないだろ?」

「当たり前でしょ、休みなんだから」

このお調子者に何度振り回されたことか。光啓はあからさまな溜息を吐き出した。

見た目だけはお人好しそうなイケメンだから頼みやすいのか、この男がこうして取引先からのお願いごとやら厄介ごとを持ちかけられては気安く受けて、光啓に丸投げしてくるのはいつものことだ。それがごくごく僅かではあるもののちゃんと仕事に繋がることがあるので、まったく無視することもできないのが厄介なところなのだ。

(けど……今回のこれは明らかにハズレだよなあ)

涼佑もそれがわかっているから理由を話さなかったのだろう。貴重な休日を潰されたイライラがまたひとつ深まって、光啓はちくりと刺すように涼佑を睨んだ。

「なんでこう、安請け合いしちゃうかな」

「困ったときはお互い様だろ?」

「それを解決してるの僕だけどね」

「あの! ね!」

どんどん光啓の空気が剣呑になっていく気配を感じてか、奈々がやや強引にふたりの間に割って入った。

「とりあえず、話、聞いてもらって良いかな」

「あ……うん、そうだね」

確かにこのままふたりで言い合いをしていたところで休日が消えていくだけなので、仕方なく奈々の提案に頷いたものの、彼女が抱えている包みの形と大きさから、光啓は何となくこの先の展開がわかっていた。

奈々がその包みをテーブルの上で開いていく。

「これなんですけど……」

そうして広げられたのは、光啓の予想していた通り一枚の絵画だった。なんとも言えないような色使いをした油絵らしい作品と成金趣味な額縁を前にげんなりしている光啓の様子には気付かず、奈々は誰かから渡されたらしいメモを取り出して説明する。

「えーと……これ、今まではぱっとしてこなかったけどインフルエンサーがSNSで紹介してから話題になってる18世紀の画家の作品なんだそうです。元々数が少なかったせいもあって、有名な画廊でも作品が手に入らないらしくて、希少価値が……」

「……つまり、この絵に保険を掛けたいって話だよね?」

持ち主の自慢げな顔が見えそうな長ったらしいメモを律儀に読み上げる奈々に、光啓は思わず遮った。

「でも、どうして志賀さんが?」

「持ち主の人がね、盗まれたりしたらどうしようって困ってたから、話を聞いてる内に頼まれちゃって……」

絵は「鑑定が必要かもしれないから」と半ば強引に渡されたらしい。こんな個人的なことでわざわざ光啓に連絡したら迷惑だろうと悩んでいたら、それが社長の目に留まって涼佑の耳に入ってここまで連れて来られた、というのが顛末らしい。本人は遠慮したのに光啓の元にやって来たというのだから、苦笑するしかない。

「美術品なら動産総合保険になるかな……たぶん掛け捨てになると思うけど大丈夫?」

「……やっぱり高いですか?」

奈々の不安げな声に、やはり心配ごとはそこだよな、と思いながら光啓は「ごめん」と素直に頭を下げた。

「こういうのは代理店の仕事で、俺みたいな本社営業じゃ直接扱ってはないからね。僕じゃちょっとそこまではわからないよ」

「お前、骨董品とか好きじゃ無かったっけ。鑑定とかできねーの?」

「専門外。保険にかかる金額は、絵画の値段や価値とイコールじゃないし」

「そっかあ……」

がっかりした様子の奈々に、申し訳ないような気持ちになったが、そもそ涼佑が最初からきちんと話を聞いていれば、無駄足を踏ませることはなかったのだ。内心で溜息をつきながら光啓は手帳を開きながら続ける。

「まあ、何人か専門を知ってるから、良さそうな代理店を紹介するよ」

「ありがとうございます!」

「さっすが芥川、頼りになるわー」

気楽に喜ぶ同僚の調子の良さに本日何度目かわからない溜息をつきながら、光啓はもうほとんど冷めかけの紅茶を口にし、ふと口を開いた。

「――それにしても、複製品にわざわざ保険を掛けるなんて、よっぽどその絵が気に入ったんだね、その人」

「「え?」」

光啓の声に、ふたりの驚いた声が重なる。

「複製……!?」

「……聞いてないの?」

「ほ……本物だって聞いてますけど」

奈々の困惑した表情に、光啓は眉を寄せた。

「……残念だけど、贋作(がんさく)を掴まされたみたいだね」

光啓の言葉は容赦がない。

「となると、どこで買ったのかが問題だなあ。うちの取引先で引っかかる人が出ないよう注意喚起しておきたいから、できればその人に買った経緯を教えてもらいたいんだけど……」

光啓の関心がすでに別の方向へ動いている中で、涼佑は戸惑いを隠せない様子でソファーから立ち上がった。

「なあ、どうして本物じゃ無いってわかったんだ?」

「どうしてって……んー、まず美術品に保険をかけるのを他人任せにしちゃうような人が、そんな希少価値の高い作品をホイホイ手に入れられると思えないから、怪しいと思ったんだよね」

さんざんな評価に奈々がちょっと複雑な顔をしたのに気付かず、奈々が光啓はトントンと額縁を指で叩く。

「さっきの説明だと……18世紀の作家なんだよね? それにしては額縁の時代が古すぎてズレてるし、逆に油絵の具の劣化がなさ過ぎる。少しのひび割れも無いのは不自然だし……この贋作を作ったの、本職じゃないのかな? あとは……ちょっと失礼……ああ、やっぱり」

目を丸くするふたりをよそに、光啓は絵を裏返して額縁の裏を外すとひとり納得して頷いた。

「わりと最近作ったやつだね、これ」

「最近!?」

もうほとんど悲鳴のようになったふたりの声に、光啓は淡々と説明を続ける。

「キャンバス地が真新しいでしょ。最近になって人気が出て、手に入りにくくなったのに目をつけた誰かが、儲かると思って作ったんじゃないかな……ん?」

他に何かおかしなところは無いだろうかと、隅々まで眺めていた、その時だ。

絵画の角度を変えた瞬間、その違和感が光啓の目に留まった。

(今、何か見えたような……)

疑問に思ってよく目をこらすと、絵の具の盛り上がった箇所が光を受けて何かの形を浮かび上がらせたのだとわかる。そこに意図的なものを感じて、あらゆる角度へと絵を傾けていくと、それはある規則性をもって光啓の前にその疑問を提示した。

「アルファベット……? h……o……――」

光啓はその文字を紙に書き出していく。

「howdo,youtrust……妙なところで区切られているけど……How do you trustかな?」

『どうやって信用する?』

それはまるで光啓自身にそう問いかけてくるようで、光啓はこのメッセージを仕込んだ者に奇妙な興味を抱いたのだった。

1

■第一話

その駄菓子屋には、ツケというシステムがあった。

記憶力に自信がなくなっていた店主の老婆は、どの子が何をツケで買ったかを台帳に書き留めていた。

ある日、悪い子供がこっそりと老婆の台帳を書き換えてしまい、駄菓子屋は大混乱に陥った。

そこで駄菓子屋の平和を願う子供たちは二度と同じことが起こらぬよう、ツケの情報を老婆ひとりではなく子供たち全員で管理することにした。

全員が台帳持ち、『同じ情報』が『同時に複数』存在するようにしたのだ。

更に、情報を更新する時は台帳の持ち主の半数以上が確認をしてから、というルールも決めた。

これで悪い子供がまた台帳の書き換えを企んだところで、正しい情報が失われることはなくなった。

「――とまあ、ビットコインとかで使われてるブロックチェーンの大雑把な考え方としてはこんな感じかな。台帳の新しいページ作りをしてくれた子にはお菓子をあげるとか、これを実現するために必要な諸々の仕組みはあるけど……。ともかく、直接のハッキングによるリスクがないってメリットがあるんだ」

そう告げた芥川 光啓(あくたがわ みつひろ)の前で、志賀 奈々(しが なな)は、うん、と真剣な表情で頷き。

「子どもたちにツケを許してくれる優しいお婆ちゃんのお店が守られて本当に良かった……!」

「そうだね……例え話の中のお店だけど」

「あ、でも説明のほうも、“たぶん”理解できました!」

「良かったよ。それで……僕が気になってるのは、『Satoshi Nakamoto』は何故この仕組みを作り、自分が何者かを伏せたまま世に放ったのかってこと……」

光啓は自身のスマホの画面に目を落とし、そこに映し出された文字の向こう側にいる人物に語りかけるように続けた。

「そこに、何か大きなヒントがある気がするんだ……」

開かれたメッセージアプリには『未来に光を』という文字だけが淡い光の中にあった。

一ヶ月前――

落ち着いた色合いのカーテンとラグ、木目の美しいテーブル、柔らかさにこだわったソファ。

快適な休日を過ごすためにと勤め人になってからこだわりをもって整えられたリビング。今は事情があって素材にこだわる余裕はなくなってしまってはいるが、ここでゆっくりと紅茶とお気に入りのクラシックを嗜むのが、激務の日々を送る光啓のささやかな楽しみだった。

……のだが。

「……何?」

唐突に電話をかけてきた相手の男に対し、光啓は不機嫌の隠しきれていない声で言った。

『なあ、急で悪いんだけど、ちょっと頼みがあってさ。今……』

「僕、休みなんだけど」

男は何かを説明しようとしていたが、光啓は話を聞く前に慌てて口を挟んだ。それも仕方ないだろう。同僚の泉 涼佑(いずみ りょうすけ)が持ってくる「頼みごと」は毎度ろくなことがないからだ。

「せめて、明日出勤してからに……」

『理由は説明できねーけど、めっちゃくちゃ緊急なんだよ! ってわけで今からそっち行くから、よろしく!』

「ちょ、ちょっと待っ……あ」

なんとか断ろうとする光啓を無視して、涼佑は一方的にまくしたてて通話を切ってしまった。

「相変わらず人の話を聞かないんだから……」

困った相手だが、それがわかっていて電話に出ないという選択をしなかった自分のせいでもある。のんびりと音楽鑑賞をするのを諦めて、涼佑と、恐らく彼が「頼みごと」と共に連れてくるのだろう誰かのためにカップを用意するのだった。

「……それで」

光啓は向かいのソファに腰掛けたふたりの客人を前に溜息を吐き出した。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「ごめんなさい! まさかこんなことになるなんて思ってなくて……」

奈々が申し訳なさそうに言うのに、光啓は「君が悪いんじゃないよ」と諦めの深い笑みを浮かべた。

光啓が予想したとおり、涼佑はひとりの女性を伴って現れた。予想外だったのは、それが顔見知りだったことだ。

「志賀さん?」

「なんだお前、知り合い?」

ふたりの反応に涼佑は一瞬驚いたようで、興味津々といった様子で光啓と奈々を交互に見たが、その当事者ふたりのほうは、なんと説明したものかという顔でお互いの顔を見合わせた。

友人という間柄ではないが、ただの知り合いという浅い関係ではない。それどころか光啓の家族にとって小さくない縁があるのだが、同僚のひとりでしかない涼佑に家庭の事情まで伝える気は光啓にはないのだ。

「ええっと……まあ、そんなところです」

奈々のほうもそんな光啓の考えを察したらしくどう説明しようかと困ってるようだったが、当の涼佑のほうは関係についてはまったく興味はないらしく「だったらちょうどいいや」と単純に笑った。

「おれの取引先のスポーツ用品メーカーのおっさんが、保険のことで困ってる社員がいるから話だけでも聞いてやってほしいってさー」

「……それでなんで家につれてきたのさ」

「やー、話を聞くなら本人とするのが一番じゃん?」

もっともらしいことを言っているが、絶対自分で聞くのがめんどかっただけだろ、と光啓はじとりと涼佑を見たが、当の本人はまったく悪びれた風もない上「暇つぶしにもちょうどいいじゃん」などと言う始末だ。

「お前、いっつも休みの日は家でぼーっと暇してるだけじゃん」

「……別に、ぼーっとしてるわけでも、暇してるわけでもないよ」

「暇じゃないって、もしかしてあれか? お前も例のコード探しか」

『コード探し』とは、一年前にネットを騒がせた『宝探し』だ。

曰く、様々な場所に隠された秘密の言葉を集めた者は巨額の富を得ることができるという。

その額、約3兆2000億円。オリンピックが開催できる規模だ。

主催者は『Satoshi Nakamoto』……世界で最初の仮想通貨ビットコインの創始者にして、正体不明の天才だ。

突如としてネット上に現れ、仮想通貨技術を発表した彼(あるいは彼女)は、2011年4月以降、ネット上から姿を消した。

保有している莫大な価値を持つビットコインも手つかずのまま、10年以上が過ぎた1年前……Satoshi NakamotoはSNS上に現れた。

そして、実際にSatoshi Nakamotoが保有していたビットコインを“動かし”、本物であることを証明してみせた後、「全てのコードを集めた者に、私が保有しているビットコイン全てを譲渡する」と残し、再びその消息を断ってしまった。

「あれから一年も経ってるんだよ。あんな雲を掴むような話、本気にしてる人なんてもういなくなったんじゃないの?」

「だから狙い目なんじゃねえか。競争は少ない方がいいだろ。それにお前、変な知識めっちゃあるし、謎解きとか好きじゃんか」

「……その話は置いといて」

このままだと協力させられる流れになりそうだったので、変に逸れてしまった話題を戻すように、光啓は視線を奈々の抱える荷物に向けた。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「だってそうでも言わないとお前、引き受けてくれないだろ?」

「当たり前でしょ、休みなんだから」

このお調子者に何度振り回されたことか。光啓はあからさまな溜息を吐き出した。

見た目だけはお人好しそうなイケメンだから頼みやすいのか、この男がこうして取引先からのお願いごとやら厄介ごとを持ちかけられては気安く受けて、光啓に丸投げしてくるのはいつものことだ。それがごくごく僅かではあるもののちゃんと仕事に繋がることがあるので、まったく無視することもできないのが厄介なところなのだ。

(けど……今回のこれは明らかにハズレだよなあ)

涼佑もそれがわかっているから理由を話さなかったのだろう。貴重な休日を潰されたイライラがまたひとつ深まって、光啓はちくりと刺すように涼佑を睨んだ。

「なんでこう、安請け合いしちゃうかな」

「困ったときはお互い様だろ?」

「それを解決してるの僕だけどね」

「あの! ね!」

どんどん光啓の空気が剣呑になっていく気配を感じてか、奈々がやや強引にふたりの間に割って入った。

「とりあえず、話、聞いてもらって良いかな」

「あ……うん、そうだね」

確かにこのままふたりで言い合いをしていたところで休日が消えていくだけなので、仕方なく奈々の提案に頷いたものの、彼女が抱えている包みの形と大きさから、光啓は何となくこの先の展開がわかっていた。

奈々がその包みをテーブルの上で開いていく。

「これなんですけど……」

そうして広げられたのは、光啓の予想していた通り一枚の絵画だった。なんとも言えないような色使いをした油絵らしい作品と成金趣味な額縁を前にげんなりしている光啓の様子には気付かず、奈々は誰かから渡されたらしいメモを取り出して説明する。

「えーと……これ、今まではぱっとしてこなかったけどインフルエンサーがSNSで紹介してから話題になってる18世紀の画家の作品なんだそうです。元々数が少なかったせいもあって、有名な画廊でも作品が手に入らないらしくて、希少価値が……」

「……つまり、この絵に保険を掛けたいって話だよね?」

持ち主の自慢げな顔が見えそうな長ったらしいメモを律儀に読み上げる奈々に、光啓は思わず遮った。

「でも、どうして志賀さんが?」

「持ち主の人がね、盗まれたりしたらどうしようって困ってたから、話を聞いてる内に頼まれちゃって……」

絵は「鑑定が必要かもしれないから」と半ば強引に渡されたらしい。こんな個人的なことでわざわざ光啓に連絡したら迷惑だろうと悩んでいたら、それが社長の目に留まって涼佑の耳に入ってここまで連れて来られた、というのが顛末らしい。本人は遠慮したのに光啓の元にやって来たというのだから、苦笑するしかない。

「美術品なら動産総合保険になるかな……たぶん掛け捨てになると思うけど大丈夫?」

「……やっぱり高いですか?」

奈々の不安げな声に、やはり心配ごとはそこだよな、と思いながら光啓は「ごめん」と素直に頭を下げた。

「こういうのは代理店の仕事で、俺みたいな本社営業じゃ直接扱ってはないからね。僕じゃちょっとそこまではわからないよ」

「お前、骨董品とか好きじゃ無かったっけ。鑑定とかできねーの?」

「専門外。保険にかかる金額は、絵画の値段や価値とイコールじゃないし」

「そっかあ……」

がっかりした様子の奈々に、申し訳ないような気持ちになったが、そもそ涼佑が最初からきちんと話を聞いていれば、無駄足を踏ませることはなかったのだ。内心で溜息をつきながら光啓は手帳を開きながら続ける。

「まあ、何人か専門を知ってるから、良さそうな代理店を紹介するよ」

「ありがとうございます!」

「さっすが芥川、頼りになるわー」

気楽に喜ぶ同僚の調子の良さに本日何度目かわからない溜息をつきながら、光啓はもうほとんど冷めかけの紅茶を口にし、ふと口を開いた。

「――それにしても、複製品にわざわざ保険を掛けるなんて、よっぽどその絵が気に入ったんだね、その人」

「「え?」」

光啓の声に、ふたりの驚いた声が重なる。

「複製……!?」

「……聞いてないの?」

「ほ……本物だって聞いてますけど」

奈々の困惑した表情に、光啓は眉を寄せた。

「……残念だけど、贋作(がんさく)を掴まされたみたいだね」

光啓の言葉は容赦がない。

「となると、どこで買ったのかが問題だなあ。うちの取引先で引っかかる人が出ないよう注意喚起しておきたいから、できればその人に買った経緯を教えてもらいたいんだけど……」

光啓の関心がすでに別の方向へ動いている中で、涼佑は戸惑いを隠せない様子でソファーから立ち上がった。

「なあ、どうして本物じゃ無いってわかったんだ?」

「どうしてって……んー、まず美術品に保険をかけるのを他人任せにしちゃうような人が、そんな希少価値の高い作品をホイホイ手に入れられると思えないから、怪しいと思ったんだよね」

さんざんな評価に奈々がちょっと複雑な顔をしたのに気付かず、奈々が光啓はトントンと額縁を指で叩く。

「さっきの説明だと……18世紀の作家なんだよね? それにしては額縁の時代が古すぎてズレてるし、逆に油絵の具の劣化がなさ過ぎる。少しのひび割れも無いのは不自然だし……この贋作を作ったの、本職じゃないのかな? あとは……ちょっと失礼……ああ、やっぱり」

目を丸くするふたりをよそに、光啓は絵を裏返して額縁の裏を外すとひとり納得して頷いた。

「わりと最近作ったやつだね、これ」

「最近!?」

もうほとんど悲鳴のようになったふたりの声に、光啓は淡々と説明を続ける。

「キャンバス地が真新しいでしょ。最近になって人気が出て、手に入りにくくなったのに目をつけた誰かが、儲かると思って作ったんじゃないかな……ん?」

他に何かおかしなところは無いだろうかと、隅々まで眺めていた、その時だ。

絵画の角度を変えた瞬間、その違和感が光啓の目に留まった。

(今、何か見えたような……)

疑問に思ってよく目をこらすと、絵の具の盛り上がった箇所が光を受けて何かの形を浮かび上がらせたのだとわかる。そこに意図的なものを感じて、あらゆる角度へと絵を傾けていくと、それはある規則性をもって光啓の前にその疑問を提示した。

「アルファベット……? h……o……――」

光啓はその文字を紙に書き出していく。

「howdo,youtrust……妙なところで区切られているけど……How do you trustかな?」

『どうやって信用する?』

それはまるで光啓自身にそう問いかけてくるようで、光啓はこのメッセージを仕込んだ者に奇妙な興味を抱いたのだった。

1

■第一話

その駄菓子屋には、ツケというシステムがあった。

記憶力に自信がなくなっていた店主の老婆は、どの子が何をツケで買ったかを台帳に書き留めていた。

ある日、悪い子供がこっそりと老婆の台帳を書き換えてしまい、駄菓子屋は大混乱に陥った。

そこで駄菓子屋の平和を願う子供たちは二度と同じことが起こらぬよう、ツケの情報を老婆ひとりではなく子供たち全員で管理することにした。

全員が台帳持ち、『同じ情報』が『同時に複数』存在するようにしたのだ。

更に、情報を更新する時は台帳の持ち主の半数以上が確認をしてから、というルールも決めた。

これで悪い子供がまた台帳の書き換えを企んだところで、正しい情報が失われることはなくなった。

「――とまあ、ビットコインとかで使われてるブロックチェーンの大雑把な考え方としてはこんな感じかな。台帳の新しいページ作りをしてくれた子にはお菓子をあげるとか、これを実現するために必要な諸々の仕組みはあるけど……。ともかく、直接のハッキングによるリスクがないってメリットがあるんだ」

そう告げた芥川 光啓(あくたがわ みつひろ)の前で、志賀 奈々(しが なな)は、うん、と真剣な表情で頷き。

「子どもたちにツケを許してくれる優しいお婆ちゃんのお店が守られて本当に良かった……!」

「そうだね……例え話の中のお店だけど」

「あ、でも説明のほうも、“たぶん”理解できました!」

「良かったよ。それで……僕が気になってるのは、『Satoshi Nakamoto』は何故この仕組みを作り、自分が何者かを伏せたまま世に放ったのかってこと……」

光啓は自身のスマホの画面に目を落とし、そこに映し出された文字の向こう側にいる人物に語りかけるように続けた。

「そこに、何か大きなヒントがある気がするんだ……」

開かれたメッセージアプリには『未来に光を』という文字だけが淡い光の中にあった。

一ヶ月前――

落ち着いた色合いのカーテンとラグ、木目の美しいテーブル、柔らかさにこだわったソファ。

快適な休日を過ごすためにと勤め人になってからこだわりをもって整えられたリビング。今は事情があって素材にこだわる余裕はなくなってしまってはいるが、ここでゆっくりと紅茶とお気に入りのクラシックを嗜むのが、激務の日々を送る光啓のささやかな楽しみだった。

……のだが。

「……何?」

唐突に電話をかけてきた相手の男に対し、光啓は不機嫌の隠しきれていない声で言った。

『なあ、急で悪いんだけど、ちょっと頼みがあってさ。今……』

「僕、休みなんだけど」

男は何かを説明しようとしていたが、光啓は話を聞く前に慌てて口を挟んだ。それも仕方ないだろう。同僚の泉 涼佑(いずみ りょうすけ)が持ってくる「頼みごと」は毎度ろくなことがないからだ。

「せめて、明日出勤してからに……」

『理由は説明できねーけど、めっちゃくちゃ緊急なんだよ! ってわけで今からそっち行くから、よろしく!』

「ちょ、ちょっと待っ……あ」

なんとか断ろうとする光啓を無視して、涼佑は一方的にまくしたてて通話を切ってしまった。

「相変わらず人の話を聞かないんだから……」

困った相手だが、それがわかっていて電話に出ないという選択をしなかった自分のせいでもある。のんびりと音楽鑑賞をするのを諦めて、涼佑と、恐らく彼が「頼みごと」と共に連れてくるのだろう誰かのためにカップを用意するのだった。

「……それで」

光啓は向かいのソファに腰掛けたふたりの客人を前に溜息を吐き出した。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「ごめんなさい! まさかこんなことになるなんて思ってなくて……」

奈々が申し訳なさそうに言うのに、光啓は「君が悪いんじゃないよ」と諦めの深い笑みを浮かべた。

光啓が予想したとおり、涼佑はひとりの女性を伴って現れた。予想外だったのは、それが顔見知りだったことだ。

「志賀さん?」

「なんだお前、知り合い?」

ふたりの反応に涼佑は一瞬驚いたようで、興味津々といった様子で光啓と奈々を交互に見たが、その当事者ふたりのほうは、なんと説明したものかという顔でお互いの顔を見合わせた。

友人という間柄ではないが、ただの知り合いという浅い関係ではない。それどころか光啓の家族にとって小さくない縁があるのだが、同僚のひとりでしかない涼佑に家庭の事情まで伝える気は光啓にはないのだ。

「ええっと……まあ、そんなところです」

奈々のほうもそんな光啓の考えを察したらしくどう説明しようかと困ってるようだったが、当の涼佑のほうは関係についてはまったく興味はないらしく「だったらちょうどいいや」と単純に笑った。

「おれの取引先のスポーツ用品メーカーのおっさんが、保険のことで困ってる社員がいるから話だけでも聞いてやってほしいってさー」

「……それでなんで家につれてきたのさ」

「やー、話を聞くなら本人とするのが一番じゃん?」

もっともらしいことを言っているが、絶対自分で聞くのがめんどかっただけだろ、と光啓はじとりと涼佑を見たが、当の本人はまったく悪びれた風もない上「暇つぶしにもちょうどいいじゃん」などと言う始末だ。

「お前、いっつも休みの日は家でぼーっと暇してるだけじゃん」

「……別に、ぼーっとしてるわけでも、暇してるわけでもないよ」

「暇じゃないって、もしかしてあれか? お前も例のコード探しか」

『コード探し』とは、一年前にネットを騒がせた『宝探し』だ。

曰く、様々な場所に隠された秘密の言葉を集めた者は巨額の富を得ることができるという。

その額、約3兆2000億円。オリンピックが開催できる規模だ。

主催者は『Satoshi Nakamoto』……世界で最初の仮想通貨ビットコインの創始者にして、正体不明の天才だ。

突如としてネット上に現れ、仮想通貨技術を発表した彼(あるいは彼女)は、2011年4月以降、ネット上から姿を消した。

保有している莫大な価値を持つビットコインも手つかずのまま、10年以上が過ぎた1年前……Satoshi NakamotoはSNS上に現れた。

そして、実際にSatoshi Nakamotoが保有していたビットコインを“動かし”、本物であることを証明してみせた後、「全てのコードを集めた者に、私が保有しているビットコイン全てを譲渡する」と残し、再びその消息を断ってしまった。

「あれから一年も経ってるんだよ。あんな雲を掴むような話、本気にしてる人なんてもういなくなったんじゃないの?」

「だから狙い目なんじゃねえか。競争は少ない方がいいだろ。それにお前、変な知識めっちゃあるし、謎解きとか好きじゃんか」

「……その話は置いといて」

このままだと協力させられる流れになりそうだったので、変に逸れてしまった話題を戻すように、光啓は視線を奈々の抱える荷物に向けた。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「だってそうでも言わないとお前、引き受けてくれないだろ?」

「当たり前でしょ、休みなんだから」

このお調子者に何度振り回されたことか。光啓はあからさまな溜息を吐き出した。

見た目だけはお人好しそうなイケメンだから頼みやすいのか、この男がこうして取引先からのお願いごとやら厄介ごとを持ちかけられては気安く受けて、光啓に丸投げしてくるのはいつものことだ。それがごくごく僅かではあるもののちゃんと仕事に繋がることがあるので、まったく無視することもできないのが厄介なところなのだ。

(けど……今回のこれは明らかにハズレだよなあ)

涼佑もそれがわかっているから理由を話さなかったのだろう。貴重な休日を潰されたイライラがまたひとつ深まって、光啓はちくりと刺すように涼佑を睨んだ。

「なんでこう、安請け合いしちゃうかな」

「困ったときはお互い様だろ?」

「それを解決してるの僕だけどね」

「あの! ね!」

どんどん光啓の空気が剣呑になっていく気配を感じてか、奈々がやや強引にふたりの間に割って入った。

「とりあえず、話、聞いてもらって良いかな」

「あ……うん、そうだね」

確かにこのままふたりで言い合いをしていたところで休日が消えていくだけなので、仕方なく奈々の提案に頷いたものの、彼女が抱えている包みの形と大きさから、光啓は何となくこの先の展開がわかっていた。

奈々がその包みをテーブルの上で開いていく。

「これなんですけど……」

そうして広げられたのは、光啓の予想していた通り一枚の絵画だった。なんとも言えないような色使いをした油絵らしい作品と成金趣味な額縁を前にげんなりしている光啓の様子には気付かず、奈々は誰かから渡されたらしいメモを取り出して説明する。

「えーと……これ、今まではぱっとしてこなかったけどインフルエンサーがSNSで紹介してから話題になってる18世紀の画家の作品なんだそうです。元々数が少なかったせいもあって、有名な画廊でも作品が手に入らないらしくて、希少価値が……」

「……つまり、この絵に保険を掛けたいって話だよね?」

持ち主の自慢げな顔が見えそうな長ったらしいメモを律儀に読み上げる奈々に、光啓は思わず遮った。

「でも、どうして志賀さんが?」

「持ち主の人がね、盗まれたりしたらどうしようって困ってたから、話を聞いてる内に頼まれちゃって……」

絵は「鑑定が必要かもしれないから」と半ば強引に渡されたらしい。こんな個人的なことでわざわざ光啓に連絡したら迷惑だろうと悩んでいたら、それが社長の目に留まって涼佑の耳に入ってここまで連れて来られた、というのが顛末らしい。本人は遠慮したのに光啓の元にやって来たというのだから、苦笑するしかない。

「美術品なら動産総合保険になるかな……たぶん掛け捨てになると思うけど大丈夫?」

「……やっぱり高いですか?」

奈々の不安げな声に、やはり心配ごとはそこだよな、と思いながら光啓は「ごめん」と素直に頭を下げた。

「こういうのは代理店の仕事で、俺みたいな本社営業じゃ直接扱ってはないからね。僕じゃちょっとそこまではわからないよ」

「お前、骨董品とか好きじゃ無かったっけ。鑑定とかできねーの?」

「専門外。保険にかかる金額は、絵画の値段や価値とイコールじゃないし」

「そっかあ……」

がっかりした様子の奈々に、申し訳ないような気持ちになったが、そもそ涼佑が最初からきちんと話を聞いていれば、無駄足を踏ませることはなかったのだ。内心で溜息をつきながら光啓は手帳を開きながら続ける。

「まあ、何人か専門を知ってるから、良さそうな代理店を紹介するよ」

「ありがとうございます!」

「さっすが芥川、頼りになるわー」

気楽に喜ぶ同僚の調子の良さに本日何度目かわからない溜息をつきながら、光啓はもうほとんど冷めかけの紅茶を口にし、ふと口を開いた。

「――それにしても、複製品にわざわざ保険を掛けるなんて、よっぽどその絵が気に入ったんだね、その人」

「「え?」」

光啓の声に、ふたりの驚いた声が重なる。

「複製……!?」

「……聞いてないの?」

「ほ……本物だって聞いてますけど」

奈々の困惑した表情に、光啓は眉を寄せた。

「……残念だけど、贋作(がんさく)を掴まされたみたいだね」

光啓の言葉は容赦がない。

「となると、どこで買ったのかが問題だなあ。うちの取引先で引っかかる人が出ないよう注意喚起しておきたいから、できればその人に買った経緯を教えてもらいたいんだけど……」

光啓の関心がすでに別の方向へ動いている中で、涼佑は戸惑いを隠せない様子でソファーから立ち上がった。

「なあ、どうして本物じゃ無いってわかったんだ?」

「どうしてって……んー、まず美術品に保険をかけるのを他人任せにしちゃうような人が、そんな希少価値の高い作品をホイホイ手に入れられると思えないから、怪しいと思ったんだよね」

さんざんな評価に奈々がちょっと複雑な顔をしたのに気付かず、奈々が光啓はトントンと額縁を指で叩く。

「さっきの説明だと……18世紀の作家なんだよね? それにしては額縁の時代が古すぎてズレてるし、逆に油絵の具の劣化がなさ過ぎる。少しのひび割れも無いのは不自然だし……この贋作を作ったの、本職じゃないのかな? あとは……ちょっと失礼……ああ、やっぱり」

目を丸くするふたりをよそに、光啓は絵を裏返して額縁の裏を外すとひとり納得して頷いた。

「わりと最近作ったやつだね、これ」

「最近!?」

もうほとんど悲鳴のようになったふたりの声に、光啓は淡々と説明を続ける。

「キャンバス地が真新しいでしょ。最近になって人気が出て、手に入りにくくなったのに目をつけた誰かが、儲かると思って作ったんじゃないかな……ん?」

他に何かおかしなところは無いだろうかと、隅々まで眺めていた、その時だ。

絵画の角度を変えた瞬間、その違和感が光啓の目に留まった。

(今、何か見えたような……)

疑問に思ってよく目をこらすと、絵の具の盛り上がった箇所が光を受けて何かの形を浮かび上がらせたのだとわかる。そこに意図的なものを感じて、あらゆる角度へと絵を傾けていくと、それはある規則性をもって光啓の前にその疑問を提示した。

「アルファベット……? h……o……――」

光啓はその文字を紙に書き出していく。

「howdo,youtrust……妙なところで区切られているけど……How do you trustかな?」

『どうやって信用する?』

それはまるで光啓自身にそう問いかけてくるようで、光啓はこのメッセージを仕込んだ者に奇妙な興味を抱いたのだった。

1

■第一話

その駄菓子屋には、ツケというシステムがあった。

記憶力に自信がなくなっていた店主の老婆は、どの子が何をツケで買ったかを台帳に書き留めていた。

ある日、悪い子供がこっそりと老婆の台帳を書き換えてしまい、駄菓子屋は大混乱に陥った。

そこで駄菓子屋の平和を願う子供たちは二度と同じことが起こらぬよう、ツケの情報を老婆ひとりではなく子供たち全員で管理することにした。

全員が台帳持ち、『同じ情報』が『同時に複数』存在するようにしたのだ。

更に、情報を更新する時は台帳の持ち主の半数以上が確認をしてから、というルールも決めた。

これで悪い子供がまた台帳の書き換えを企んだところで、正しい情報が失われることはなくなった。

「――とまあ、ビットコインとかで使われてるブロックチェーンの大雑把な考え方としてはこんな感じかな。台帳の新しいページ作りをしてくれた子にはお菓子をあげるとか、これを実現するために必要な諸々の仕組みはあるけど……。ともかく、直接のハッキングによるリスクがないってメリットがあるんだ」

そう告げた芥川 光啓(あくたがわ みつひろ)の前で、志賀 奈々(しが なな)は、うん、と真剣な表情で頷き。

「子どもたちにツケを許してくれる優しいお婆ちゃんのお店が守られて本当に良かった……!」

「そうだね……例え話の中のお店だけど」

「あ、でも説明のほうも、“たぶん”理解できました!」

「良かったよ。それで……僕が気になってるのは、『Satoshi Nakamoto』は何故この仕組みを作り、自分が何者かを伏せたまま世に放ったのかってこと……」

光啓は自身のスマホの画面に目を落とし、そこに映し出された文字の向こう側にいる人物に語りかけるように続けた。

「そこに、何か大きなヒントがある気がするんだ……」

開かれたメッセージアプリには『未来に光を』という文字だけが淡い光の中にあった。

一ヶ月前――

落ち着いた色合いのカーテンとラグ、木目の美しいテーブル、柔らかさにこだわったソファ。

快適な休日を過ごすためにと勤め人になってからこだわりをもって整えられたリビング。今は事情があって素材にこだわる余裕はなくなってしまってはいるが、ここでゆっくりと紅茶とお気に入りのクラシックを嗜むのが、激務の日々を送る光啓のささやかな楽しみだった。

……のだが。

「……何?」

唐突に電話をかけてきた相手の男に対し、光啓は不機嫌の隠しきれていない声で言った。

『なあ、急で悪いんだけど、ちょっと頼みがあってさ。今……』

「僕、休みなんだけど」

男は何かを説明しようとしていたが、光啓は話を聞く前に慌てて口を挟んだ。それも仕方ないだろう。同僚の泉 涼佑(いずみ りょうすけ)が持ってくる「頼みごと」は毎度ろくなことがないからだ。

「せめて、明日出勤してからに……」

『理由は説明できねーけど、めっちゃくちゃ緊急なんだよ! ってわけで今からそっち行くから、よろしく!』

「ちょ、ちょっと待っ……あ」

なんとか断ろうとする光啓を無視して、涼佑は一方的にまくしたてて通話を切ってしまった。

「相変わらず人の話を聞かないんだから……」

困った相手だが、それがわかっていて電話に出ないという選択をしなかった自分のせいでもある。のんびりと音楽鑑賞をするのを諦めて、涼佑と、恐らく彼が「頼みごと」と共に連れてくるのだろう誰かのためにカップを用意するのだった。

「……それで」

光啓は向かいのソファに腰掛けたふたりの客人を前に溜息を吐き出した。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「ごめんなさい! まさかこんなことになるなんて思ってなくて……」

奈々が申し訳なさそうに言うのに、光啓は「君が悪いんじゃないよ」と諦めの深い笑みを浮かべた。

光啓が予想したとおり、涼佑はひとりの女性を伴って現れた。予想外だったのは、それが顔見知りだったことだ。

「志賀さん?」

「なんだお前、知り合い?」

ふたりの反応に涼佑は一瞬驚いたようで、興味津々といった様子で光啓と奈々を交互に見たが、その当事者ふたりのほうは、なんと説明したものかという顔でお互いの顔を見合わせた。

友人という間柄ではないが、ただの知り合いという浅い関係ではない。それどころか光啓の家族にとって小さくない縁があるのだが、同僚のひとりでしかない涼佑に家庭の事情まで伝える気は光啓にはないのだ。

「ええっと……まあ、そんなところです」

奈々のほうもそんな光啓の考えを察したらしくどう説明しようかと困ってるようだったが、当の涼佑のほうは関係についてはまったく興味はないらしく「だったらちょうどいいや」と単純に笑った。

「おれの取引先のスポーツ用品メーカーのおっさんが、保険のことで困ってる社員がいるから話だけでも聞いてやってほしいってさー」

「……それでなんで家につれてきたのさ」

「やー、話を聞くなら本人とするのが一番じゃん?」

もっともらしいことを言っているが、絶対自分で聞くのがめんどかっただけだろ、と光啓はじとりと涼佑を見たが、当の本人はまったく悪びれた風もない上「暇つぶしにもちょうどいいじゃん」などと言う始末だ。

「お前、いっつも休みの日は家でぼーっと暇してるだけじゃん」

「……別に、ぼーっとしてるわけでも、暇してるわけでもないよ」

「暇じゃないって、もしかしてあれか? お前も例のコード探しか」

『コード探し』とは、一年前にネットを騒がせた『宝探し』だ。

曰く、様々な場所に隠された秘密の言葉を集めた者は巨額の富を得ることができるという。

その額、約3兆2000億円。オリンピックが開催できる規模だ。

主催者は『Satoshi Nakamoto』……世界で最初の仮想通貨ビットコインの創始者にして、正体不明の天才だ。

突如としてネット上に現れ、仮想通貨技術を発表した彼(あるいは彼女)は、2011年4月以降、ネット上から姿を消した。

保有している莫大な価値を持つビットコインも手つかずのまま、10年以上が過ぎた1年前……Satoshi NakamotoはSNS上に現れた。

そして、実際にSatoshi Nakamotoが保有していたビットコインを“動かし”、本物であることを証明してみせた後、「全てのコードを集めた者に、私が保有しているビットコイン全てを譲渡する」と残し、再びその消息を断ってしまった。

「あれから一年も経ってるんだよ。あんな雲を掴むような話、本気にしてる人なんてもういなくなったんじゃないの?」

「だから狙い目なんじゃねえか。競争は少ない方がいいだろ。それにお前、変な知識めっちゃあるし、謎解きとか好きじゃんか」

「……その話は置いといて」

このままだと協力させられる流れになりそうだったので、変に逸れてしまった話題を戻すように、光啓は視線を奈々の抱える荷物に向けた。

「それが”理由の話せない緊急の案件”?」

「だってそうでも言わないとお前、引き受けてくれないだろ?」

「当たり前でしょ、休みなんだから」

このお調子者に何度振り回されたことか。光啓はあからさまな溜息を吐き出した。

見た目だけはお人好しそうなイケメンだから頼みやすいのか、この男がこうして取引先からのお願いごとやら厄介ごとを持ちかけられては気安く受けて、光啓に丸投げしてくるのはいつものことだ。それがごくごく僅かではあるもののちゃんと仕事に繋がることがあるので、まったく無視することもできないのが厄介なところなのだ。

(けど……今回のこれは明らかにハズレだよなあ)

涼佑もそれがわかっているから理由を話さなかったのだろう。貴重な休日を潰されたイライラがまたひとつ深まって、光啓はちくりと刺すように涼佑を睨んだ。

「なんでこう、安請け合いしちゃうかな」

「困ったときはお互い様だろ?」

「それを解決してるの僕だけどね」

「あの! ね!」

どんどん光啓の空気が剣呑になっていく気配を感じてか、奈々がやや強引にふたりの間に割って入った。

「とりあえず、話、聞いてもらって良いかな」

「あ……うん、そうだね」

確かにこのままふたりで言い合いをしていたところで休日が消えていくだけなので、仕方なく奈々の提案に頷いたものの、彼女が抱えている包みの形と大きさから、光啓は何となくこの先の展開がわかっていた。

奈々がその包みをテーブルの上で開いていく。

「これなんですけど……」

そうして広げられたのは、光啓の予想していた通り一枚の絵画だった。なんとも言えないような色使いをした油絵らしい作品と成金趣味な額縁を前にげんなりしている光啓の様子には気付かず、奈々は誰かから渡されたらしいメモを取り出して説明する。

「えーと……これ、今まではぱっとしてこなかったけどインフルエンサーがSNSで紹介してから話題になってる18世紀の画家の作品なんだそうです。元々数が少なかったせいもあって、有名な画廊でも作品が手に入らないらしくて、希少価値が……」

「……つまり、この絵に保険を掛けたいって話だよね?」

持ち主の自慢げな顔が見えそうな長ったらしいメモを律儀に読み上げる奈々に、光啓は思わず遮った。

「でも、どうして志賀さんが?」

「持ち主の人がね、盗まれたりしたらどうしようって困ってたから、話を聞いてる内に頼まれちゃって……」

絵は「鑑定が必要かもしれないから」と半ば強引に渡されたらしい。こんな個人的なことでわざわざ光啓に連絡したら迷惑だろうと悩んでいたら、それが社長の目に留まって涼佑の耳に入ってここまで連れて来られた、というのが顛末らしい。本人は遠慮したのに光啓の元にやって来たというのだから、苦笑するしかない。

「美術品なら動産総合保険になるかな……たぶん掛け捨てになると思うけど大丈夫?」

「……やっぱり高いですか?」

奈々の不安げな声に、やはり心配ごとはそこだよな、と思いながら光啓は「ごめん」と素直に頭を下げた。

「こういうのは代理店の仕事で、俺みたいな本社営業じゃ直接扱ってはないからね。僕じゃちょっとそこまではわからないよ」

「お前、骨董品とか好きじゃ無かったっけ。鑑定とかできねーの?」

「専門外。保険にかかる金額は、絵画の値段や価値とイコールじゃないし」

「そっかあ……」

がっかりした様子の奈々に、申し訳ないような気持ちになったが、そもそ涼佑が最初からきちんと話を聞いていれば、無駄足を踏ませることはなかったのだ。内心で溜息をつきながら光啓は手帳を開きながら続ける。

「まあ、何人か専門を知ってるから、良さそうな代理店を紹介するよ」

「ありがとうございます!」

「さっすが芥川、頼りになるわー」

気楽に喜ぶ同僚の調子の良さに本日何度目かわからない溜息をつきながら、光啓はもうほとんど冷めかけの紅茶を口にし、ふと口を開いた。

「――それにしても、複製品にわざわざ保険を掛けるなんて、よっぽどその絵が気に入ったんだね、その人」

「「え?」」

光啓の声に、ふたりの驚いた声が重なる。

「複製……!?」

「……聞いてないの?」

「ほ……本物だって聞いてますけど」

奈々の困惑した表情に、光啓は眉を寄せた。

「……残念だけど、贋作(がんさく)を掴まされたみたいだね」

光啓の言葉は容赦がない。

「となると、どこで買ったのかが問題だなあ。うちの取引先で引っかかる人が出ないよう注意喚起しておきたいから、できればその人に買った経緯を教えてもらいたいんだけど……」

光啓の関心がすでに別の方向へ動いている中で、涼佑は戸惑いを隠せない様子でソファーから立ち上がった。

「なあ、どうして本物じゃ無いってわかったんだ?」

「どうしてって……んー、まず美術品に保険をかけるのを他人任せにしちゃうような人が、そんな希少価値の高い作品をホイホイ手に入れられると思えないから、怪しいと思ったんだよね」

さんざんな評価に奈々がちょっと複雑な顔をしたのに気付かず、奈々が光啓はトントンと額縁を指で叩く。

「さっきの説明だと……18世紀の作家なんだよね? それにしては額縁の時代が古すぎてズレてるし、逆に油絵の具の劣化がなさ過ぎる。少しのひび割れも無いのは不自然だし……この贋作を作ったの、本職じゃないのかな? あとは……ちょっと失礼……ああ、やっぱり」

目を丸くするふたりをよそに、光啓は絵を裏返して額縁の裏を外すとひとり納得して頷いた。

「わりと最近作ったやつだね、これ」

「最近!?」

もうほとんど悲鳴のようになったふたりの声に、光啓は淡々と説明を続ける。

「キャンバス地が真新しいでしょ。最近になって人気が出て、手に入りにくくなったのに目をつけた誰かが、儲かると思って作ったんじゃないかな……ん?」

他に何かおかしなところは無いだろうかと、隅々まで眺めていた、その時だ。

絵画の角度を変えた瞬間、その違和感が光啓の目に留まった。

(今、何か見えたような……)

疑問に思ってよく目をこらすと、絵の具の盛り上がった箇所が光を受けて何かの形を浮かび上がらせたのだとわかる。そこに意図的なものを感じて、あらゆる角度へと絵を傾けていくと、それはある規則性をもって光啓の前にその疑問を提示した。

「アルファベット……? h……o……――」

光啓はその文字を紙に書き出していく。

「howdo,youtrust……妙なところで区切られているけど……How do you trustかな?」

『どうやって信用する?』

それはまるで光啓自身にそう問いかけてくるようで、光啓はこのメッセージを仕込んだ者に奇妙な興味を抱いたのだった。

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